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アンフィニッシュト5-1

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「お茶でも飲むか」

 笠原警視正の問いに、琢磨は「結構です」と答えた。当然のことである。

「そうか。それならいい」

 そう言うと笠原は、先ほどと同じように机の上の書類に目を落とした。

 気まずい沈黙が三分ほど続き、ようやくノックの音が聞こえた。

「横山です」

「入れ」

 横山と名乗った人物が入室してきたので、琢磨は正対して敬礼した。

 横山は、角刈り頭で身長は180センチメートルほどあり、こちらも武道で鍛えたとおぼしき立派な体格をしている。

「それでは横山係長、三橋巡査部長に仕事内容を説明したまえ」

「分かりました」

 横山は琢磨の横に腰掛けると、脇に抱えてきた分厚い書類綴じを机の上に置いた。

「新聞に書かれているので知っていると思うが、ベトナム戦争の激化に伴い、学生たちが騒がしくなってきている。とくに羽田闘争以来、その勢いを増し、遂にはヘルメットにゲバ棒を持って武力闘争のステージに入った。その結果が、今年一月の東大安田講堂事件だ。最近では、全共闘の動きが以前より過激になってきた。とくにノンセクト・ラジカルという特定の党派に属さない組織が、どの大学にもできてからは予断を許さない状況になりつつある」

 そこで言葉を切ると、横山が問うてきた。

「私の話が分かるか」

「はい。分かります」

「横山君、彼は首席だ。構わぬから続けろ」

 笠原が、目を通していた書類から顔を上げると言った。

「そうでしたか」

 横山は頭をかくようなしぐさをすると、元の口調に戻った。

「われわれは、こうした動きが変質し、過激化していくのを防がねばならない。言うなれば未然に芽を摘み取った方が、芽吹いてから摘み取るよりも、はるかに楽なのだ」

 横山が笠原に目で合図した。ここからは笠原に話してもらいたいのだ。

「そこでだ」

 笠原が眼鏡を外す。その小さな目には鋭い光が宿っている。

「君に、その役割を託したいのだ」

「私に、ですか」

 警察学校を出たての二十四歳の男に、警視正が物事を託すだけでも驚きだが、琢磨には、全共闘運動の火がこれ以上、広がらないようにする方策など考えもつかない。

「そうだ。君に託したいのだ。いくら背伸びしても、われわれには無理だからな」

 笠原が少し笑ったので、横山もそれに追随するような笑みを浮かべた。

「それは、どういう意味ですか」

「君には若さがある」

「若さ、ですか」

 琢磨が二人に対して優れている点としては、確かに若さしかない。

 ——それで、俺に何をしろというのだ。

 何か重大な使命が託されようとしていることは分かったが、それが何かは、見当もつかない。

「この仕事だけは、若くなければ務まらんのだ。つまり——」

 笠原の瞳の奥が光る。

「ある大学に潜入してほしいのだ」

「大学に潜入——」

「そうだ。強大になりつつある組織の中に入り込み、情報を取ってきてほしいんだ。それによって、われわれは大きな動きを未然に防げる」

「それを私に——」

「そうだ。君は北海道出身なので、こちらに知己は少ないはずだ」

「はい。ほとんど誰もいません」

「しかも三代続く警察官一家だ。われわれにしてみれば信頼が置ける」

 琢磨の祖父と父は警察官だった。祖父は交番の巡査で終わったが、父は北海道警の課長まで出世した。警察の上層部から見れば、琢磨は忠犬の血筋を引いていることになる。

 ——血統書付き、ってわけか。

 北海道大学に入学した頃と違って、さすがに琢磨にも自我が目覚め、そうした自分に反発を覚えることもある。だが祖父や父は尊敬できる存在であり、警察官の仕事は、男としてやりがいのあるものだと思っていた。

「確かに私の祖父も父も、警察の飯を食べさせていただきました」

 琢磨が少し胸を張る。

「しかも、君の顔は十代半ばにしか見えない」

 ——これは容易な仕事ではないな。

 ようやく琢磨にも、これから託される使命の重さが分かってきた。

「君は、子供の頃から武道をやっていたと聞くが」

「はい。小学生の頃から柔道をやらされていました」

「やらされていた、か」

 笠原と横山が笑う。彼らも、多かれ少なかれ同じような状況だったのだろう。

 琢磨にとって柔道は、決して楽しいものではなかった。だが柔道を通じて、琢磨が肉体的にも精神的にも、同世代の若者に比べてタフになったのも事実である。

「とくに気に入っているのは、君の見た目が警察官らしくないことだ。横山君と二人で、各県の公安課から送られてくる新人の写真に目を通したのだが、二人とも君が適任だと思った」

 笠原が笑みを浮かべると、横山が問うてきた。

「文学部文学研究科だと聞いている」

「はい」

「それなら、奴らの訳の分からない言葉や理屈にも付いていけるな」

「何とかなると思います」

 学生運動の闘士たちは、あえて難しい言葉を好む。それを理解するには、哲学書から古典文学まで、相当量の読書の蓄積が必要になる。琢磨はそれほどの読書家でもなかったが、大学時代、世の中の動きを知るために新聞はもちろんのこと、「朝日ジャーナル」を取っていたので、闘志たちが何を言わんとしているか、大まかなことは分かる。

「まさに適任だな」

「仰せの通りです」

 笠原と横山がうなずき合う。

「これは極めて危険な仕事だ。正体がばれたらリンチにされる」

 笠原が釘を刺すかのように言う。

「リンチ、ですか」

 その意味は分かっていたが、つい聞き返してしまった。

「リンチとは、皆に袋叩きにされるということだ。さすがに殺されはしないが、ヤクザなどとは違って加減を知らない連中だ。どうなるかは分からない」

 笠原の言葉を横山が補足する。

「やつらは、バットでスイカを叩き割る訓練もしているそうだ」

「横山君、あまり脅かすな」

 笠原の口調が厳しくなる。

「もちろんわれわれは、この仕事を君に強要できない。だが、もしも受けてくれるなら、君の評価はぐっとよくなるはずだ」

 ——つまり受けなければ、評価は悪くなるということか。

 警察学校にいた時、兄が警察官だという仲間から、これに類似した話を聞いたことがある。つまり潜入捜査などの危険な仕事は断ることもできるが、断ってしまえば評価は下がり、その後も重要な任務に就かせてもらえなくなるという。

 ——つまり上に行きたければ、断るという選択肢はないのだ。

 琢磨にも人並みの野心はある。

 ——この年で出世をあきらめられるか。

 そうなれば、答えは一つしかない。

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