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川中島合戦と『吹けよ風 呼べよ嵐』   【歴史奉行通信】第四十二号

こんばんは。

今夜も「歴史奉行通信」第四十二号を
お届けいたします。


〓〓今週の歴史奉行通信目次〓〓〓〓〓〓〓


1. はじめに

2. 川中島合戦と『吹けよ風 呼べよ嵐』

3. 必読!川中島合戦Q&A

4. 伊東潤Q&Aコーナー&感想のお願い

5.お知らせ奉行通信
新刊情報 / 読書会 / その他


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1. はじめに

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とても過ごしやすい季節になってきましたね。


今年は4月になっても寒い日が続きましたが、
GW以降は晴天率も高く、
行楽日和の日が続いています。


さて、今回は5/11-12に開催された、
第三回伊東潤の城めぐり
「武田家滅亡ツアー in 山梨」
のご報告をしようと思っていたのですが、
それは映像やSNSで
五月雨式に行っているので、
同じ武田家絡みで別の話をしましょう。


なお「武田家滅亡ツアー」のご報告は、
こちらをご覧下さい。
http://fcew36.asp.cuenote.jp/c/bxb2aaeIpD3GfObE

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2. 川中島合戦と『吹けよ風 呼べよ嵐』

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本日5月15日、
川中島合戦を正面から描いた
『吹けよ風 呼べよ嵐』の文庫版
刊行されました。


それを記念して、
今回は川中島合戦と本作について
語っていきたいと思います。


そもそも川中島合戦とは、
武田信玄と上杉謙信が北信濃の地を舞台に
五度も戦った戦国時代を代表する合戦です。


その発端は信玄の領土拡張欲が
北信濃まで及び、その地を侵食された
北信濃国人たちが
謙信に助けを求めたことに始まります。


とくに大規模な野戦となった第四次会戦は、
大将同士の「太刀打ち(一騎打ち)」にまで
及ぶほどの激戦となり、
双方共に甚大な損害をこうむったことでも
知られています。


この作品は、
これまで武田信玄や上杉謙信の視点から
描かれてきた川中島合戦を、
須田満親という北信濃の一国人の視点から
描いたものです。


五度にわたる戦いの年次は、
以下のようになります。


第一次 天文二十二年(一五五三)
第二次 天文二十四年(一五五五)
第三次 弘治三年(一五五七)
第四次 永禄四年(一五六一)
第五次 永禄七年(一五六四)


桶狭間の戦いが永禄三年(一五六〇)
ですから、それを挟む形になり、
信長の勃興前夜に信玄と謙信は
しのぎを削っていたわけです。


つまり中央では、三好三人衆や
松永弾正が幅を利かせていた時代です。


畿内を除く地方では、
すでに室町幕府の権威は形骸化し、
信玄や謙信のような戦国大名が、
自分の意志で領国を統治し、
自分の戦いたい敵と戦う時代に
なっていました。


これまで川中島合戦と言えば、
その主役は信玄と謙信でした。
もちろん決戦を行った両軍の
主体は二人ですから、
この見方は間違ってはいません。


しかし信玄に所領を奪われた
北信濃の国人たちが、
どのような思いでいたのか、
また、いかにそれを取り返そうと
したのかという視点から、
この合戦を描いた小説作品は皆無でした。


それに気づいた私は、
国人視点で川中島合戦を描こうと
思い立ちました。


そこでまず考えたのは、
北信濃国衆の盟主である
村上義清を視点人物に据えるプランです。
義清は信玄との戦いに二度までも勝った
名将です(上田原の戦い・砥石崩れ)。
義清を主役に据えれば、
血沸き肉躍る合戦譚になると思いました。


しかしそれでは昭和の英雄豪傑譚であり、
現代の読者の共感を得られないと思いました。
もっと読者が共感できる
等身大の人物はいないかと探したところ、
格好の人物がいました。


それが須田満親です。


天文五年(1536)に生まれた満親は、
第四次会戦の時に二十代後半で、
まさに脂が乗り切った青年武将でした。
しかも後年、上杉家の家臣として、
直江兼続に匹敵するほどの
活躍を見せる逸材です。


そこで故地を追われた彼の痛恨の思いと、
奪還に懸ける意気込みを描くことにしました。


つまり昨今の歴史学会で話題となっている
国人という視点から、
この戦いを描き出そうとしたのです。


しかし、それだけでは
作品として単線構造です。


そこで調べていくうちに、
満親の須田本家と同等の勢力を持つ
分家があり、分家は武田方に付くという
選択をすることによって、同族相討つと
いう状況に陥ったと分かりました。


しかも分家には、
同年代の青年(須田信正)がいたのです。


そこで「道を分かった二人の親友」
という図式が浮かびました。


それで二人を軸として物語を
書き進めていくことにしました。


すなわち第四次川中島合戦に至る
経緯を縦糸に、故郷を追われた満親の思いと
信正との確執を横糸にして描いた作品が、
『吹けよ風 呼べよ嵐』なのです。

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3. 必読!川中島合戦Q&A

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それでは今回のメルマガの後半は、
川中島合戦について、かつて受けた
インタビューなどの内容を編集し、
Q&A方式で転載します。

Q1 :
川中島は、どうして魅力的な題材なのか

A1:
・武田信玄と上杉謙信という、
戦国時代を代表する両雄が
正面から激突した戦いだったからです。

・大会戦だったという点です。
戦国時代は攻城戦が多く、
実際は野戦が極めて少なかったのです。
これだけ広闊(こうかつ)な地で、
東国を代表する二大戦国大名が
正面からぶつかるのは、
奇跡と言っても過言ではありません

・一次史料が極端に少ないので、
その全貌が分かりにくいこともあり、
断片的な情報から自分なりの合戦像を
想像できることです。

Q2 :
第四次会戦における双方の損害について

A2:
上杉軍は八千、
武田軍は三千の敵を討ち取ったと、
謙信と信玄はそれぞれの書状に
書いていますが、双方共に自己申告なので
真偽は定かでありません。
当時の戦いは二割から三割の兵が死傷すると、
全軍壊滅に近い打撃(損失)と言われるので、
この数字が真実だとすると、双方共に
再起不能に近い打撃を受けたことになります。
しかし両軍共に、
同年内に別の軍事行動を起こしているから、
これほどの損害ではなかったと思われます。

Q3 :
第四次会戦において両雄の一騎打ちは
あったのか、なかったのか

A3:
・私はあったと考えています。
実は「太刀打ちがあったのか、なかったのか」
というのは、合戦前半の主導権を握った
謙信の戦い方にあります。
有名な車懸かりの戦法ですね。
あれは「肉を切らせて骨を断つ」
に近い戦法で、謙信は太刀打ちに及ぶ前提で、
あの戦法を取ったと思われます。

・上杉軍は決戦指向の強い軍団でした。
上杉軍の軍役を武田・北条両軍と比較すると、
槍などの接近戦用の武器の装備率が高く、
弓や鉄砲といった飛び道具の装備率は
両軍の三分の一程度でした。
これが何を意味するのか…。
すなわち上杉軍は、その編成からして
接近戦で敵を撃滅することを戦術方針とした
軍団だったのです。

・野戦では大将が範を示すことで
全軍が奮い立ちました。とくに謙信は、
「手回りの侍どもで槍を合わせて数度戦い、
国衆の目を驚かせた」と
軍記物にあることから、
自らが戦うことで戦術的に有利な情勢に
持ち込もうということよりも、
その戦う姿勢を味方に見せて、
味方を奮い立たせようとしたと分かります。

・傍証としては、
北条氏康も太刀打ちに及んだことがあり、
向こう傷があったとされますし、
河越合戦では逃亡可能な状況下で
扇谷上杉朝定(ともさだ)が
討ち死にを遂げています。
つまり戦国時代中期までは、
「大将の太刀打ち」は決して珍しいことでは
ありませんでした。

 詳細は、乃至政彦氏著
『上杉謙信の夢と野望』P166
あたりをご参照下さい。
また「車懸かりの戦法」については、
乃至氏の論考を支持しているので、
この場で言及は差し控えます。

『上杉謙信の夢と野望』
http://fcew36.asp.cuenote.jp/c/bxb2aaeIpD3GfObF

Q4:
第四次会戦において
啄木鳥戦法はあったのか、なかったのか

A4:
軍記物のほかには
第四次会戦の記録がないので、
一概に「なかった」というのも
乱暴だと思います。確かに夜間、
別動隊が細尾根(大嵐山や鞍骨の尾根など)を
一列縦隊で妻女山に向かうのは
困難だったかもしれません。
しかし長篠合戦で酒井忠次率いる別動隊が、
大難所の迂回路を通って
長篠城の攻囲陣の背後を突いた例もあります。

双方を歩いたことがある私としては
(ここが重要)、長篠の酒井忠次の方が、
よほどたいへんだったと思います。

「なかった説」の論拠は、
「あれだけの道を歩いてから
合戦に及ぶのは困難」
という体力的なものですが、
昔の人は、われわれの考えの及ばないような
力を発揮しました。
地形だけで無理だと即断するのは
早計だと思います。

それにもう一つ盲点なのは、
「なかった説」を主張している先生方の
体力的問題です。
先生方の感覚ではそうであっても、
四十代で歩いた私の感覚なら、
「不可能ではない」と思いました。


この件については、
拙著『城を攻める 城を守る』の
P127あたりをご覧下さい。

『城を攻める 城を守る』
http://fcew36.asp.cuenote.jp/c/bxb2aaeIpD3GfObG

Q5 :
第四次会戦の勝敗について

A5:
これは信玄と謙信の勝ち負けの定義によるので、
一概にはどちらが勝ったとは言えません。
つまり謙信は相手に与えたダメージを、
信玄は川中島を死守した
ということを重視して、
双方共に「勝った」と主張しているのです。

一見、川中島を死守した
信玄の勝ちに思えますが、
それは戦術レベルでの話で、
戦略レベルでは、
武田軍にダメージを与えたことで
越後への侵攻や、
信玄の上洛作戦を当面阻止した
謙信に利があると思われます。
私の判定としては、戦略レベルでは
「謙信の勝ち」としておきます。

Q6:
川中島合戦はローカルな戦いか

A6:
川中島合戦は
天下分け目の戦いではありません。
その点、日本史の大きな分岐点になった
戦いとは言い難いと思います。
ただし二人が川中島で
死闘を繰り広げたことで、
信玄は少なくとも
五年は上洛作戦が遅れました。
一方の謙信も軍勢を疲弊させ、
関東への関与をあきらめざるを
得なくなります。
また室町幕府再興という
生涯のテーマを実現する前に
寿命が尽きてしまいました。
すなわち間接的には、
日本史に大きな影響を与えた戦いだと言えます。

Q7:
川中島合戦を描いた歴史小説は
どんなものがあるのか

A7:
川中島合戦を描いた小説では、
新田次郎氏の『武田信玄』、
海音寺潮五郎氏の『天と地と』、
井上靖氏の『風林火山』
そして最近では海道龍一朗氏の
『天祐、我にあり』、
アンソロジーの『決戦!川中島』
などがあります。

こうした先行作とは、
また違ったテイストの作品が
拙著『吹けよ風 呼べよ嵐』です。
国人を主役に据えたこともその一因ですが、
何と言っても最新の研究成果を元に、
綿密な文献調査と現地踏査を
実施しておりますので、
臨場感には自信があります。

一言だけ付け加えさせていただくと、
海道龍一朗氏の『天祐、我にあり』は
史実に則った良作なので、機会があれば読んでおくと
いいと思います。

Q 8:
続編構想はあるのか

A 8:
この作品には、須田満親の後半生を描いた
続編の構想があります。

謙信の死後、
越後国ではその後継の座をめぐって
御館(おたて)の乱が勃発します。
その時、須田満親は上杉景勝に味方して
信頼を得ます。
景勝の勝利後はさらに重用され、
川中島の海津城を任されるまでになります。
こうした実績により、
景勝に従って上洛を果たし、
直江兼続と共に秀吉から豊臣姓まで
下賜されます。

上杉家中では兼続に次ぐ大身となりますが、
最後は海津城で自害を遂げることになります。

死に至るまでの満親の人生を
独自の解釈で書いてこそ、
満親の物語は完結を見るわけです。

タイトルも『降れよ雨 叫べよ雷(いかずち)』
と決めているのですが、実現するかどうかは
文庫の売れ行き次第です。
続編が読みたい方は、ぜひ
『吹けよ風 呼べよ嵐』を買って下さい。

Q9:
タイトルは何かを意識しているのか。

A9:
この作品のタイトルは
ピンクフロイドの曲から取ってきています。
この曲の原タイトルは
『One of these days(直訳 : そのうちに)』
という英語の慣用句なのですが、
それでは勢いがないと思ったのか、
日本語タイトルは『吹けよ風 呼べよ嵐』
にしたようです。

この曲中には「One of these days,
I'm going to cut you into little pieces.
(いつの日か、お前を細切れにしてやる)」
という歌詞があり、
まさに須田満親と信正の
言いそうな台詞だったので、
そのままタイトルをいただきました。

ピンクフロイド
『One Of These Days』
http://fcew36.asp.cuenote.jp/c/bxb2aaeIpD3GfObH


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4. 伊東潤Q&Aコーナー&感想のお願い

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最後に質問コーナーです。


Q.
いつもメルマガ楽しく拝見しています。
よくデニーズで
お仕事をされているようですが、
他に、伊東先生が執筆をされる上で
欲しい環境やツールがあれば
教えてください。
(おいしいコーヒー、近くに温泉、など)
(乙姫。様)

A.
リフレッシュはスポーツジムで行っています。
週2~3回、近くのジムで汗を流します。
以前はウエイト・トレーニングに
力を入れていたのですが、
ここ3年ほどは水泳に重点を置いています。
水泳はあまり得意ではなかったのですが、
2002年に近所にジムができてから
地道にやってきたおかげで、
今でもクロール1,000mは必ず泳ぎます。

今年の健診も少し脂肪肝というだけで、
医師からは摂生を指示されることも
なかったので、このペースでトレーニングを
続けていくつもりです。
(伊東潤)


インタラクティブを心がけている
伊東潤のメルマガでは、
皆さまからの質問に最大限にお答えします。
是非お気軽に以下のリンクより
お送りください。
感想やメッセージも大歓迎です。
http://fcew36.asp.cuenote.jp/c/bxb2aaeIpD3GfObI

メールの場合は
info@corkagency.com
までどうぞ。


さて、今回はいかがでしたか。


皆様は川中島合戦について、
どのようにお考えですか。
思いのたけをSNSなどで語っていただければ
幸いです。


尚、アップいただく際は
「#歴史奉行通信」
「#伊東潤メルマガ」
のハッシュタグをつけてください。
皆さんの感想をいつも楽しく
読ませてもらっています。

それでは、また!

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