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アンフィニッシュト 1-1

第一章 過去への旅

 平成二十七年(2015)五月十七日の早朝、真夜中に緊急連絡を受けた寺島大輔は、下宿のある大師駅から始発電車に乗って八丁畷駅に向かった。

 火事とは聞いたが、夜勤の連中は詳しいことを教えてくれなかった。彼らは署員に片っ端から電話をせねばならず、寺島のような下っ端には、詳しい状況など説明してくれない。

 ——どのみち出番は、八時頃だろう。

 夜中の火災の場合、出火原因の捜査が始まるのは翌朝からだが、様々な準備のために、いつもより早く署に駆け付けねばならない。むろん要職にある者たちは、夜中のうちに自家用車やタクシーを使って署に向かっているはずであり、寺島のような下っ端署員が集まる前に捜査計画を立てている。

 ——上に行けば行くだけ、仕事がきつくなるのが警察というところだ。

 寺島は私大出のノンキャリアなので出世をあきらめているが、万が一、出世コースに乗ったら乗ったで、楽ではないと思っていた。

 京急川崎駅を出てからしばらくして、乗客たちが左側の窓に寄った。何事かと思い、反射的に席を立った寺島大輔は、乗客の肩越しに窓の外を見た。

 そこには、一筋の黒煙が上っていた。

 ——現場はあの辺か。

 黒煙は、マンションや低層の集合住宅の間から上がっているので、火元は少し奥まったところのようだ。

 ——署が無事で何より。

 皮肉交じりにそう思ったが、署の周囲には、警察官が慌ただしく行き交っている。マスコミのクルマもそこかしこに路上駐車され、中継の準備が進められている。

 それだけ見れば、この火事が大きいという察しがつく。

 ——こいつは人が死んでいるな。

 寺島の経験が、それを教える。

 ——そういえば、あの辺りには、確か簡易宿泊所があったはずだ。

 そのことを思い出した寺島は、八丁畷駅で降車するや、速足で署に向かった。署に近づくと、明らかにいつもと違う雰囲気が漂っていた。皆、顔に緊張を漂わせ、ピリピリしている。駐車場の整理をしている平巡査でさえも、苛立ちを隠せず、大声でマスコミ関係者らしき人たち追い払っている。

 署の前の駐車場に同僚がいたので、何があったのか尋ねると、深夜二時頃、警察署の裏手にある簡易宿泊所から出火し、朝になって、ようやく鎮火したという。

 ——思った通りだ。

 出火元は、やはりあの簡宿だった。

 寺島は上長の指示を仰ぐべく、自らの所属する刑事課に向かった。

 署内は、外に輪を掛けて慌ただしい空気が漂っていた。事件に関係している者は皆、急ぎ足でどこかに向かい、直接、かかわりのない者も緊張した面持ちである。

 ——これは事件性があるな。

 予断は禁物とは思いつつも、何となくきな臭い感じがする。

 警察に入って七年目なので、寺島も「空気を読む」ことができるようになっていた。

「お早うございます」

 ドアを開けて一礼すると、そこにいる顔が一斉にこちらを向いた。どの顔も不愛想だが、逆の立場なら寺島もそうなので、文句は言えない。

 課長席の周りには、捜査一課長を取り囲むようにして、非常招集されてきたお偉いさんたちが十五人ほど集まっている。

 ——複数の死者が出た上、放火の可能性が高いってことか。しかも放火犯は、まだ捕まっていない。

 やがて話がまとまったのか、寺島の上司にあたる刑事課長の島田秀雄を除く面々が、部屋の外に出ていった。

 寺島がいるのに気づいたのか、島田秀雄が脂ぎった顔を向けてきた。

「お早うございます」と言いつつ、寺島が島田の方に向かうと、島田は机の前の椅子を勧めた。

「厄介なことになった」

「放火ですか」

 一礼して椅子に座った寺島は、島田の顔から、ただならぬ様子を感じ取った。

「まだ、はっきりしたことは分からんが、いずれにせよ、焼死者はかなりの数になる」

「かなりと言うと——」

「なんせ焼けたのは増田屋と末吉(すえよし)だからな。おそらく十人前後だろう」

「そんなに——」

 寺島は絶句した。十人前後の焼死者を出す火事は珍しく、今の職場に配属されてから六年ほどの間でも、経験したことはない。しかも、これだけ川崎警察署に近い場所で、それほどの死者が出た火事が起こるなど、とても信じられない。

「残念ながら、それくらいは亡くなられているようだ。宿直の者たちも現場に駆け付けたようだが、火勢が強くてどうにもならなかったという。もうすぐ県警の火災犯がやってきて、掘り起しが始まる。さて、何体出てくるかな」

 火災犯とは、捜査一課の火災犯捜査係のことである。火災が起こった場合、その規模にもよるが、二、三名の専従員が現場に派遣され、最初の「掘り起こし」の指揮を執る。そこから出てきた焼損残渣物、いわゆる残渣を調べ、何らかの手掛かりを摑もうとするのだ。

「ということは、宿泊者名簿も焼けてしまったというわけですね」

「そうだ。大家は逃げ出して助かったんだが、犠牲者の実数さえ把握していない」

 オーナー兼大家は、焼けた簡易宿泊所に自らも住んでいたが、かなり高齢だと聞いたことがある。

「当然、パソコンは使っていないですよね」

「当たり前だろ。ただ使っていたとしても、あの火勢ではディスクが溶けている」

 島田がため息をつく。

「それで、放火の可能性はあるのですか」

「ある」

 そう言い切ると、島田の顔が引き締まった。

「確か、例の件は終わりかけていたな」

「はい」

 ちょうど担当していた事件が山を越え、寺島には余裕がある。

「おそらく特捜を立ち上げることになりそうだ。もちろん、そうなれば指揮は捜査一課が執る。所轄からも本部に人を出すことになりそうだが、君は野崎君らと地取りをやってもらうことになるだろうな」

 焼死者が出て事件性があるとすれば、神奈川県警の捜査一課から一個班程度の捜査官が入り特別捜査本部、いわゆる特捜を立ち上げる。ただし鑑取り(関係者聞き込み)や地取り(現場周辺の聞き込み)は捜査一課の指揮の下、所轄の刑事課の仕事になる。

 ——責任者は野崎さん、か。

 野崎晃とは、島田の片腕格の敏腕警部補のことである。野崎は以前、捜査一課の火災班にいたが、今は川崎署の強行犯係に所属している。誇り高く下の者に厳しいので気軽に話もできない。

「まあ、奴も君ら若いもんのために厳しくしているんだ。放火捜査の方法を徹底して教えてくれるぞ」

 寺島の気持ちを読んだかのように、島田が言う。

「分かりました」

「作業着に着替えたら、すぐに現場に行ってくれ」

 こうした場合、所轄の末端の者は野次馬の整理や警察車両の駐車スペースの確保などを行い、掘り起こしが始まれば、大量の瓦礫を取り除く作業に従事する。

「それでは頼むぞ」

「分かりました」

 寺島は駆け足で現場に向かった。

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