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城をひとつ <試し読み版>

本日3/30、最新刊『城をひとつ』が発売されました。
ここでは、冒頭部分をお読みいただけます。

刊行記念として、大河ドラマ『真田丸』で北条氏政役を演じられた高嶋政伸さんとの対談も掲載しましたので、こちらもあわせてお読みください。

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城をひとつ

「城をひとつ、お取りすればよろしいか」

 鉄錆びた古鐘のような男の声音が、新築成ったばかりの小田原城評定の間に響きわたる。

「城をひとつ取る、と申すか」

 当主の座を占める三十代後半の男が、その細い目を見開くようにして問うと、家臣たちの最上座に座る赤ら顔の男が声を荒げた。

「太守様、かような言説を弄する者を、今早雲庵様が招いたとは思えませぬ。おそらく騙りの類でござろう」

「だが、この者は父の書状をお持ちだ」

 当主の北条氏綱が赤ら顔の宿老をたしなめる。

「して大藤殿、父が生きておるうちに参られなかったのはなぜか」

 大藤信基は、その痩せぎすの体を軋ませるように一礼すると言った。

「紀州根来にある所領の処分に手間取っておりました。早雲庵様御在世の頃に参ることが叶わず、真にもって無念に候」

 北条早雲こと、伊勢宗瑞は永正十六年(一五一九)八月十五日に死去し、それから四年余りの歳月が流れていた。

「それで大藤殿は、ほとんど身ひとつで相模国に参られたのか」

 氏綱が興味津々といった眼差しを向ける。

「はい。故郷の所領を庶弟に譲りましたので、わずかにいた家子郎党も置いてまいりました。それゆえ、こちらには息子二人と参りました」

「二人の息子とな」

「はい。次男はいまだ元服しておりませぬが――」

 信基が話し終わる前に、別の宿老が横槍を入れた。

「まさかそなたは、城を取るのに、われらの兵を当てにしておるのではあるまいな」

「いえいえ、皆様方の兵を貸してくれなどとは申しませぬ。長男にも、手が足らぬところを手伝ってもらうだけのこと」

 氏綱が身を乗り出しつつ「それでは、御身ひとつで城を取ると申すか」と問うと、信基は「はい」とだけ答えた。

 その禅問答のようなやりとりに飽いたかのように、赤ら顔の宿老が呆れるように言う。

「われらを愚弄するのも、ほどほどになされよ」

「待て」

 氏綱が赤ら顔を片手で制す。

「とにかく城をひとつ、お任せしてよろしいのだな」

「はい」

「では、いずこの城を取るつもりか」

「それがしは東国の事情に疎く、いずれの城なら取りやすいか、取りにくいかなどということは分かりませぬ。それゆえ、太守様がご所望の城をお取りいたしましょう」

「ほう」と言いつつ氏綱が膝をにじる。

「それなら、江戸城でもよろしいか」

「はい。構いませぬ」

「よく言うわ」

「静まれ」

 再び口を挟もうとする赤ら顔を、氏綱がたしなめる。

「江戸城を取るのは容易でないぞ」

「容易かどうかは、入ってみねば分かりませぬ」

「入ってみる、と申すか」

「はい」

 並み居る重臣たちの間にどよめきが起こる。

「間者は敵にばれたら殺されるが、貴殿はそれでも構わぬのか」

「命のひとつくらい懸けねば、皆様方に信じてはもらえますまい」

 信基が皮肉な笑みを浮かべる。

 すでに五十代後半に入っているはずの信基だが、その笑みは、人を惹きつけるに十分な魅力がある。

「分かった。それで、いつまでに取れる」

「さすがにすぐにとは申せませぬが、長くて三月もいただければ」

「三月と申すか」

「はい。城内に三月いて何もできなければ、十年いても同じこと」

「ははは、よくぞ申した」

 赤ら顔の呵々大笑が評定の間に響く。

「御身ひとつで、かの太田道灌公が縄を打った江戸城を、三月でお取りなさると申すか」

「卒爾ながら――」

 信基の口調が変わる。

「それがしは、間違いなく取れるとは申しませぬ。しかしこの世のことは、何事もやってみなければ分かりませぬ。それは、座したまま何もやらぬ方よりは、ましというものではありませぬか」

「何を言う!」

「もうよい」

 氏綱がうんざりしたように赤ら顔を制した。

「大藤殿、そのお覚悟、全くもって見事。必要なものは何なりと申して下され。首尾よくゆけば、三百貫文の地をお約束しよう」

「ありがたきお言葉」

「ただし期間は三月、また、囚われの身になったからといって、われらは何もしてやれぬ。その覚悟はおありか」

「もとより」

 大ぶりな袖を翻し、信基が平伏した。

 大永四年(一五二四)正月早々、船の舳で風に吹かれながら、信基は白浜の続く海岸線を眺めていた。

 浜には、北に向かう途次らしき鶴や渡り鳥の群れが羽を休めている。時折、砂の中に嘴を突っ込むのは、船虫などをついばんでいるからだろう。塩焼きの村人たちが周囲を歩き回っても、鶴は平然とその作業を続けている。

 ――あの鶴のように、平然としておれば捕まることなどないのだ。

「子曰く、捕らわれると思えば捕らわれ、捕らわれざると思えば捕らわれることなし」

 かつてそらんじるまで読み込んだ『孟徳新書』の一節が、口をついて出た。

『孟徳新書』とは、曹操が孫子に倣って記した兵法書のことである。

 それによると、古代、某国の王が敵国の情報を得ようと多くの間者を送り込んだが、どの間者もすぐに捕まってしまう。そこで入込術の名人と呼ばれる男を探し出し、「どうすれば捕らわれずに済むか」と問うたところ、名人は前述のごとく答えたという。

 どの間者も、顔色を読まれて捕まっていたのだ。

 ――つまり自信を持って事に当たれば、恐れる物は何もないのだ。

 神奈河湊を出た廻船は、小半刻(約三十分)もあれば江戸城に着く。

 ――それにしても、よくぞここまで来たものだな。

 信基は、一人の男によって変えられた己の運命に思いを馳せていた。

 紀伊国の国衆である大藤家の嫡男として、信基は応仁元年(一四六七)に生まれた。

 時を同じくして応仁・文明の乱が勃発し、紀伊国の守護大名・畠山氏により、大藤一族も各地の戦に駆り出され、少なからぬ犠牲を強いられた。

 応仁・文明の乱が終息すると、畠山氏の勢力が衰え、根来寺およびその坊官から国衆化してきた連中の勢力が強まってきた。

 畠山氏を頼れなくなった信基の父らは「惣」を作って対抗しようとしたが、根来寺に日に日に圧迫され、「惣」に参加していた畠山氏旧臣たちの中にも、根来寺傘下に入る者が出始めていた。

 文明十九年(一四八七)二月、こうした苦境を幕府に陳情すべく、「惣」から使者に指名された二十一歳の信基は京に上った。

 その時、幕府の申次として現れた男に出会ったことが、信基の運命を大きく変える。

 鷹のように鋭い目と岩塊のような頬骨を持つその男は、伊勢新九郎盛時と名乗った。後の早雲庵宗瑞である。

 信基は盛時にすがり、根来寺による所領の押領を押しとどめるべく、将軍から奉書を出してもらおうとした。

 話を聞いた盛時は「ご尤も」と言ってくれたが、「事は、そう容易には運びませぬぞ」と付け加えるのを忘れなかった。根来寺と懇意にしている幕府奉行衆や奉公衆もおり、彼らも当然、圭幣(賄賂)をもらっているからだ。

 京に腰を据えた信基は、盛時と頻繁に会って対策を練り、時には幕府の要路に圭幣を贈ることまでしたが、奉書はなかなか下りない。

 万策尽きた盛時は、本家筋の幕府政所執事・伊勢貞宗に直接、信基を会わせることにした。

 その席で信基は「経世済民」について、とうとうと持論を述べた。それが貞宗の心を打ち、ようやく奉書が下されることになった。

 後に盛時から聞いた話だが、信基の説く政策論は五山の僧でも語れぬほど見事なもので、どうして鄙の一国衆にすぎない二十一歳の青年が、これほどの学問があるのか不思議に思ったという。

 その秘密を問われた信基は、口端に笑みを浮かべて答えた。

「かつてわが里に、大陸帰りの僧がおりました。僧は京の建仁寺から派遣された一人でしたが、別当と仲違いし、寺を飛び出してわが里に隠れました。それだけならよくある話ですが、その僧は、ひそかに『孟徳新書』全巻を明国から持ち帰っていたのです」

「『孟徳新書』とは、かの曹操が、『孫子』に注解を加えたものと聞いておりますが」

 盛時の問いに、信基は笑って答えた。

「いえいえ、それは誤伝で、実際は『孫子』に対抗し、曹操が自らの軍略を記したものです。しかし、ある人物から『孫子』の物まねと揶揄されたため、曹操は怒り、写しも含めたすべてを焼き尽くしたとされてきました」

「その中の一冊が残り、それが日本に伝わっていたと仰せか」

「はい」

「それはどこにあるのですか」

「残念ながら、今はありません」

 信基は経緯を話した。

「その僧は、『孟徳新書』の存在が建仁寺に知られれば、必ずや将軍家か有力武将に献上されると思い、隠していたのです」

「それほどまでに『孟徳新書』は、毒が強いと仰せか」

「はい。人の心を操ることのできる魔性の書です」

「魔性の書と――」

「僧は、われわれのような童子に手習いを教え、糊口を凌いでおりました。そんなある日、僧が『孟徳新書』を読むことを、それがしにだけ許してくれたのです」

 失火などから『孟徳新書』が失われることを恐れた僧は、聡明な信基に、暗記するまで読み込むよう命じた。

 それに応えた信基は、『孟徳新書』を貪るように読んだ。

 それからほどなくして、僧の不安は的中した。

 僧の住む草庵が根来衆徒の襲撃に遭い、『孟徳新書』を運び出そうとした僧は殺された。

 草庵には火がかけられ、『孟徳新書』は灰になった。

「だがその中身は、この頭の中に収まっております」

 絶句する盛時を尻目に、信基がにやりとした。

 貞宗から奉書を拝領した信基が、いよいよ明日、根来に帰ろうという日、盛時が宿館にやってきた。

 信基は盛時にも礼物を贈ろうとしたが、盛時は一切を断わると言った。

「礼金も礼物も要りませぬ。貴殿という逸物に出会えたことが何よりの宝物」

 その一言が信基の心を射た。

 ――あの時、伊勢殿は、わしの中に己に似た何かを嗅ぎ取っていたのだ。

 盛時が不安そうな顔で言う。

「時代の流れは急です。貴殿が大切に胸に抱える奉書とて、ただの紙切れになる日が来るやもしれませぬぞ」

 それを聞いた信基は面食らった。

 幕府の高官といえば皆、形骸化しつつある将軍家と幕府の権威を高めることばかりを言うものだが、この男は違うのだ。

「大藤殿、この奉書により、いったんは根来衆徒の押領も収まるでしょう。しかしその間に力を蓄えねば、やがてこの奉書の効力もなくなりまするぞ」

「つまり、己の力だけを頼りにする時代が来ると仰せか」

「いかにも」と、盛時が確信を持って言う。

「己の力だけが頼りの時代となれば、武士の中には野盗化する者も増え、民は略奪や濫妨狼藉の限りを尽くされ、土地は荒れます。農耕を放棄された荒蕪地が広がれば、国は成り立ちませぬ。それゆえそれがしは――」

 中空に据えられた盛時の目は、何かを見ていた。

「そうはならぬよう、民のための楽土を築きたい」

「楽土と仰せか」

「正しき法の下で、万民が平等に暮らせる国家を築きたいのです」

「この天下にそれを――」

 当時、天下とは京を中心にした畿内のことである。

「さにあらず」

 盛時が首を左右に振る。

「都には魔が棲んでおります。それらをすべて退治するには、命がいくつあっても足りませぬ。それならば、いまだ魔の少ない地方を楽土にし、それを天下にまで広げていく方が早道かと」

「魔が少ない地とは――」

「東国です」

 盛時が盃を干した。

 この二月後、身ひとつで駿河国に下向した盛時は、幕府御親類衆の駿河今川家の跡取りである外甥を助け、十一月には敵対勢力を討ち果たした。

 これにより盛時は、駿河今川家の宿老筆頭の座に就いた。

 それを風の噂で聞いた信基は、盛時の言っていたことが、ただの大言壮語ではないと知った。

 次に盛時に会ったのは、延徳三年(一四九一)七月のことである。

 盛時は何の前触れもなく、ぶらりとやってきた。供の一人も連れておらず、自ら笈を背負うその姿は、修験僧か高野聖にしか見えない。

 ――あのお方は己を飾ることをしなかった。

 武士であろうが公家であろうが、大半の者が実際よりも己を大きく見せようとする。だが盛時だけは、いつも素のままだった。

 流れ出る汗を手巾でぬぐいつつ、盛時は言った。

「これから、この国で大きな変化が起こります。それがしも命を懸けることになりましょう。できることなら、その大仕事を貴殿に手伝ってほしいのです」

「それがしごときに何ができるというのです」

「何を仰せか。経世済民を第一と考える貴殿の存念(理想)と、『孟徳新書』の軍略こそ、新しき世には必要なのです」

 それは信基にとって魅力的な提案だった。しかし信基には、代々受け継いできた所領があり、食べさせていかねばならない一族や家の子郎党もいる。盛時の事業に手を貸したいという思いはあっても、おいそれと乗れる話ではなかった。

 むろん盛時とて、それは分かっている。

「すぐにとは言いませぬ」

 そう言い置くと、盛時は来た時と同じように笈を背負って一人、去っていった。

 夏草の生い茂る中を、しっかりとした足取りで、盛時は己の存念に向かって歩んでいた。

 その先にあるものを、信基は共に見たいと思った。

 しかしそれが、盛時を見る最後になるとは、この時、思ってもみなかった。

 それからの盛時の活躍には凄まじいものがあった。

 細川政元が起こした明応二年(一四九三)の政変に呼応し、東国で決起した盛時は、伊豆の堀越公方府を落とし、伊豆一国を手中に収めると、相模に進出して大森氏と三浦氏を屠り、相模一国を奪った。

 その間も年に一度か二度は、盛時から便りが届いた。

 むろんそこには、根来での所領の維持が危うくなった折は、相応の所領を伊豆か相模に用意するので、迷うことなくこちらに来てほしいと書かれていた。

 かつて盛時も、備中にある所領を親類に譲り、裸一貫となって駿河に下向したという。

 しかし、櫓のように組み上がった人間関係の中で、すべてを捨てて根来の地を去ることなど、信基にはできなかった。

 信基は根来寺の衆徒らを相手に、所領を守るだけの戦いに明け暮れていた。猫の額のような田畑を取ったり取られたりしているうちに、信基は青年から壮年になり、やがて老境に入ろうとしていた。

 しばらくして盛時から最後の書状が届いた。そこには、自分はもう長くないので、できれば東国に下向し、わが一族を支えてほしいと書かれていた。

 すでに出家して早雲庵宗瑞と名乗っていた盛時が死去したのは、それから半年後の永正十六年(一五一九)八月のことである。享年は六十四だった。

 ちょうどその頃から、いよいよ根来寺の圧力は強まり、「惣」を形成して根来寺に対抗していた国衆も、櫛の歯が抜けるように根来寺傘下に転じていった。

 むろん信基とて、それを考えないわけではなかった。意地のために、一族や家の子郎党を無駄死にさせるわけにはいかないからだ。

 だが、これまで正面切って根来寺と敵対していた信基がいる限り、大藤一族が過酷な目に遭わされるのは間違いない。信基は身を引くことを決意し、大藤家の名跡を庶弟に譲った。

 こうしておけば、庶弟が根来寺傘下に入っても、これまでのことを不問に付される可能性が高くなる。

 すでに信基の室は亡くなっており、信基には、二人の男子がいた。

 長男で二十一歳の三郎景長と、六歳の次男である。

 景長も根来を去ることに異存はなかったので、信基は二人を連れて東国に下ることにした。

 むろんこの時、風の噂で盛時の死は知っていたが、かつてもらった書状には、「息子の氏綱を助けてほしい」という一文もあり、信基は躊躇せず小田原に向かった。

 大永三年(一五二三)十二月、信基は五十七歳になっていた。

 やがて船は品川沖に着いた。小田原を出てから六浦と神奈河に寄り、荷の積み下ろしをしたが、それでも風がよかったためか、まだ日は落ちていない。

 ――いかに城に入るか、そしていかに信頼を勝ち得るか。

 江戸城が取れるか否かは、その二つにかかっている。

「父上」

 思案にふけっていると、背後から声がかかった。三郎景長である。

「此度は、うまくいきますかね」

 息子は、ここまで黙って付いてきてくれた。だが敵地が目前となり、さすがに勝算だけでも聞いておきたいと思ったに違いない。

「分からぬな」

「分からぬままに、死地に飛び込まれるのですか」

「ああ、後は運に身を任せるだけよ」

「父上ともあろうお方が、運頼みとは珍しい」

 景長が笑う。

「そうとでも考えねば、こんな危うい仕事、やっておられぬわ」

 信基の笑いが、橙色に染まりつつある蒼天に響く。

 とは言っても、信基にも多少の勝算はある。

 北条家の掴んだ数少ない情報の中に、江戸城主の_r 扇 谷上杉朝興と宿老の一人・太田資高が無類の馬数寄で、馬を見せ合っては自慢しているというものがあった。

 信基は、この一点を突破口にしようと思った。

「しょせん命はひとつしかない。それ以上は何も取られぬ」

「仰せの通り」

 積荷と共に平底船に移った二人は、品川湊に向かった。

品川は武蔵国随一の商港で、その賑わいは伊勢大湊に匹敵するほどだった。

 沖には五百石積みはある大型船が何隻も停泊し、平底船に荷を積み換えている。

 平底船は決まった水路を通り、品川湊の荷揚げ場に向かうので、あたかも行軍する軍勢のように一列になって水路を進んでいく。

 信基らの乗る船も、その列に並ぶようにして港を目指した。

 江戸湾の奥深くまで進めば進むほど、土砂の堆積により水深が浅くなるため、西国からやってきた船は、品川沖で平底船に荷を載せ換え、品川や江戸に運んでいく。そのため品川沖が大型船の停泊場となっていた。

 右手を見ると、江戸湊に向かう平底船が列を成している。

 どちらに向かう船も、ほぼ一列を成しているのは、水深のある水路が限定されているからだ。

 やがて前方に州崎の砂洲が見えてきた。

 州崎の砂洲は天狗の鼻のように、北に向かって長く伸びているため、品川湊は風波の影響を受けにくく、至って穏やかである。

 湾内をしばらく行くと、次第に湾はくびれて目黒川に変わる。左手に伸びる砂洲には、防風林代わりの松が植えられ、右手の陸側には商家の間から東海道が見え隠れし、その賑わいが察せられた。

 信基は、江戸城から二里ほど南の品川を拠点にして動き回るつもりでいた。というのも、品川宿を眼下に見下ろす御殿山に、扇谷上杉家の宿老である太田氏の居館があるからだ。

 北条家の手の者によって話をつけていた馬借に入った二人は、船で運んできた馬を引き出させた。

「父上、これが太守(氏綱)の乗馬ですか」

「ああ、これくらいは見せないことには、相手が乗ってこないからな」

 馬覆いを取ると、見事な白葦毛の馬が現れた。

「これほどの馬を差し上げてしまうのですか」

「城に比べれば安いものよ」

 そう言って大笑いすると、信基は一人、馬を引いて東海道を東に向かった。

 いつの時代も、いい女と良馬に人の目は吸い寄せられる。擦れ違う商人や旅人の多くが振り返っては、その白葦毛に驚きの眼差しを向ける。

 わざとゆっくりと東海道を進んだ信基は、通り沿いにある構えの大きな茶屋に入った。

 茶屋の桟敷に座し、胡麻をまぶした串団子をかじっていると、小半刻ばかりして数人の武士が現れた。武士たちは信基の方を見ながら何か語り合った後、意を決したように近づいてきた。

「もし」と、年配の武士が声をかけてきたので、信基は呆けたように「はあ」と答えた。

「馬商人とお見受けするが、どちらから参られた」

「伊勢の大湊から参りました伊都屋五兵衛と申します」

「江戸は初めてだな」

 年配の武士の背後から現れた若い武士が居丈高に問う。

「はい。飛騨に行きましたところ、よき馬が何頭か手に入りましたので、都に売りに行ったのですが、あちらは、良馬を買う余力のある方が少なく――」

 五十七年前に勃発した応仁・文明の乱で都は荒廃し、いまだ高価な馬を買うだけの経済的余力のある者は少ない。

「都は、それほど荒れておるのか」

「そうなのです。都で金があるのは、土蔵などの金貸しだけです。借金の形に良馬を保有している土蔵はあるものの、金貸しに馬道楽はいませんからね」

「ははあ、それで東国に商路を開こうというのだな」

「ご明察」

 武士たちが笑う。

「それで、その馬はどうする」

 二人の陰にいた厩司らしき老人が問うてきた。老人は舟底袖の羽織にたっつけ袴姿なので、すぐに厩番と分かる。

 ちなみに厩司とは、厩を管理する厩番衆の頭のことである。

「これから江戸城の扇谷上杉様に売りに行くつもりです」

「江戸城に行くとな」

 年配の武士が複雑な表情を浮かべる。

「はあ。それが何か」

「しばし待て」

 三人は往来まで下がると、額を突き合わせて何か相談している。

 ――どうやら、魚は餌に食らいついたようだな。

 いかにものんきそうに信基が白湯を喫していると、年長の武士が問うてきた。

「とくに売り先は決まっておらぬのだな」

「ええ、まあ」

「品川に残している馬は、どれほどある」

 馬商人は見本の馬一頭を客に見せ、残る馬は、頭数単位で売買するのが慣例である。

「あと四頭ばかり」

「それらも見せてもらえるか」

 信基は三人を連れて元来た道を引き返し、馬借の小屋につながれている馬を見せた。どれも北条家の重臣のものであり、いずれ劣らぬ名馬ばかりである。

「これだけ粒ぞろいとは思わなんだ。よろしければ館にご同道いただけぬか」

「館――、と仰せになられますと」

 馬のたてがみを撫でながら、さも当然のごとく若い武士が答えた。

「品川湊で館と言えば決まっておる。われらが主の太田資高様の館だ」

 半ば拉致されるように、信基は御殿山にある太田資高の館に向かった。

「これは名馬だ。すべていただこう」

 五頭の馬の間を行き来しつつ、いかにもうれしそうに資高が言った。

「ああ、はい。しかし――」

 上機嫌の資高に対し、信基は煮え切らない態度で応じる。

「東国まで馬を売りに来たのであろう。誰が買い手でも構わぬはずだ」

「それはそうなのですが――」

「分かったぞ」

 資高の瞳に悪戯っぽい光が浮かぶ。

「このまま江戸城に持ち込み、朝興に高く売りつけようという魂胆だな」

 この言葉だけで、資高と朝興の仲が悪いことが察せられる。

「まあ、そこは商いですから」

 信基は図星を突かれたかのように、下卑た笑みを浮かべた。

「商人というのはこれだから困る。押し買いはせぬので、値段を言え」

 押し買いとは、力に物を言わせ、安い価格で無理に買い叩くことである。

「値段と言いましても――」

 信基が言いにくそうにしていると、資高は勘繰ってきた。

「わしと朝興めが馬比べをしておると知って、値段を釣り上げようというのだな」

「いえ、そんなつもりはありませぬ」

「いや、そうに決まっておる。商人は抜け目がないからな」

 ――どうやら、思い込みの激しい御仁のようだ。

 しかし思い込みが激しければ激しいだけ、仕事はやりやすくなる。

「よし、言い値で買ってやろう」

 資高が思い切るように言った。

「言い値と仰せか」

「ああ、そうだ。武士に二言はない」

 資高が胸を張る。

「それは、ありがたきことですが――」

「言い値だぞ。何が気に入らぬ」

「実は、すでに江戸城まで使いを送り、朝興様に馬を五頭、引いていくと伝えているのです」

「何だと」

 しばし考えた末、資高が言った。

「それでは、ここの厩にいる駄馬を引いていけ」

「いずれ劣らぬ名馬を引いていくと申すよう、使いの者に命じてしまいました」

「何だと。これだけの名馬を江戸城に引いていけば、すべて朝興のものとなってしまうわ」

「しかし――」

「『手違いがあった』と言って詫びを入れればよい。金は後で勘定方からもらえ」

 そう言い捨てるや、資高は早速、氏綱の白葦毛を引いて馬場に向かった。

 いかにも困ったという顔をして、信基はその場に平伏した。

 その頃、同じく馬商人に化けた景長が、別の一頭を引いて江戸城に入った。

 景長の引く馬を見た朝興は喜び、残る馬をすべて引いてくるよう景長に命じた。

 ところが馬は、資高が独占してしまっている。

 いったん品川に戻った景長が江戸城に戻り、そのことを話すと、朝興は激怒した。

「家臣の分際で何たることか!」

 早速、朝興から使者が遣わされ、資高に馬を引き渡すよう命じてきた。

 これには、さすがの資高も鼻白んだ。

「わしが買った馬だぞ。渡してなるものか」

 馬場で書状を読みつつ、資高が激怒する。

「お待ちあれ。馬なら、すでに木曾駒の手配がついております。次の廻船に載せておりますゆえ、ここは御主君の指図に従って下され」

 おろおろしながら、信基が懇請する。

「いや、主君などとおこがましい。いかにも、われら太田一族は丹波国上杉荘以来の上杉家の家宰。しかしわが祖父道灌は、扇谷上杉家先々代当主の定正に殺されておる」

「それとこれとは話が別。この場は、わが顔を立てて下さらぬか」

 拝むように信基が頼み入る。

「それほど、波風を立てたくないのか」

「はい。馬ごときでお二人が仲違いされては、北条方の思うつぼ」

「ほほう、東国の情勢をよう知っておるな」

「商人は耳が悪ければ、やっていけませぬ」

 資高が膝を打つ。

「気に入った。そなたはよき商人よの」

「ありがたきお言葉」

「次の馬は、しかと、わしに届けるのだぞ」

「はっ、すでに手配は済んでおりますので、ご心配は要りませぬ」

「ということは、すぐに着くのか」

「はい。おそらく今頃、大湊で船に載せておりましょう」

「分かった」

 此度の飛騨駒を朝興に譲り、次の便でやってくる木曾駒を自らの物とすることで、ようやく資高は納得した。

 馬借に戻った信基は早速、さらに多くの馬を届けるよう小田原に飛札を出した。

 江戸城は、隅田川、荒川、入間川が江戸湾に注ぐ河口付近の高台にあり、さらにその東に流れる利根川と太日川という二大河川の出入口を管制する役割を果たしていた。

 それゆえ、品川湊で陸揚げされる荷が近隣で消費されるのと異なり、日比谷入江を通って江戸湊まで運ばれる荷は、いずれかの河川を使って関東内陸部へと運ばれていく。

 海路だけでなく陸路でも、浅草や松戸を経て水戸まで抜ける鎌倉街道下道、中野を経て岩付、古河、宇都宮に向かう同中道、府中を経て甲斐まで抜ける古甲州道の合流点に、江戸は位置していた。

 太田道灌が縄を打ったと言われる江戸城は、東側を蛇行しながら流れる平川の造る十余丈(約三十メートル)の河岸段丘上に築かれ、子城、中城、外城の三つの曲輪から成っていた。

 そこから見下ろす江戸湊には、大小の蔵が立ち並び、城門の前には常設の市が立ち、日よけの葭簀を立て掛けただけの粗末な床店も姿を見せていた。

 かつて道灌は、中城に設けられた静勝軒という居館からの眺めを、こう詠んだ。

 わが庵は 松原つづき 海近く 富士の高根(高嶺)を 軒端にぞみる

 ――眼下で繰り広げられる人々の営みと、それを見下ろす富士を見て、道灌殿は、ひとしおの感慨を抱いたことであろう。

 そんなことを、つらつら思いながら、信基は江戸湊に降り立った。

 ――これが名にし負う江戸城か。

 四頭の馬を引き、大橋宿と呼ばれる江戸城直下の宿に入った信基は、高橋(現・常盤橋)から平川を渡り、行き交う人々と肩が触れ合うほどの繁華な一角を悠然と進みつつ、平川門に至った。

 少しでも目の利く者は、擦れ違いざまに信基の引く馬たちを見て、感嘆のため息を漏らした。

 平川門から見上げると、本曲輪の東側中腹に築かれた泊船亭が見える。

 泊船亭は三層から成る楼閣建築で、唐破風を巧みに配した道灌好みの豪奢な造りである。

 西国の守護大名家にも劣らない扇谷上杉家の裕福さに、さすがの信基も舌を巻いた。

 扇谷上杉家は江戸湾交易網を押さえているため軍資金に事欠くことなく、宿敵である関東管領・山内上杉家との戦いを、ここまで有利に進めてこられた。

 その富の象徴こそ、静勝軒、泊船亭、含雪斎などに代表される豪壮華麗な楼閣建築群である。

 馬を厩番衆に預けた信基が、厩の近くで半刻(約一時間)ほど拝跪していると、多くの供侍を従えた貴人がやってきた。

 信基が、いかにも恐れ多いといった仕草でその場に平伏すると、朝興とおぼしき甲高い声が聞こえた。

「そなたが馬商人の伊都屋五兵衛か」

「ははっ」

「いずれも見事な馬だ」

「ありがたきお言葉」

「厩に行って見てきたが、どの馬も歯の噛み合わせがよく、口腔の色もいい。蹄叉も割れておらず健康で、色つやも至ってよし。関節痛も脚癖もないというが、そこまでの馬を、よくぞ集めたものだ」

 脚癖がないとは、走る際に首を振るとか前かがみになるといった癖のないことをいう。

「お褒めに与り、恐懼に耐えませぬ」

「これほどの馬をそろえられる商人は、なかなかおらぬ。どこで養われていた馬なのか」

 ――此奴は意外に賢い。

 単なる馬数寄の資高と違い、十ほど年上の朝興は世事に通じているように感じられる。

「よほどの分限でないと、ここまで馬を育てられぬからな」

 上目づかいに見ると、床几に座した朝興が、疑い深そうな眼差しを向けている。

 畏まったそぶりを見せつつ、信基は慎重に言葉を選んだ。

「わたくしは、これという馬の雑説(噂)を聞きつければ、己の足でどこにでも赴きます。此度は西国のある貴顕が没し、遺族がその趣味だった馬を一度に売りに出した次第。さすがにこうしたことは、そうそうありませぬ」

「ほほう。そうだったのか。まあ、それはどうでもよい」

 朝興がその貴顕の名までは聞いてこなかったので、信基は心中、安堵の吐息を漏らした。

「われら武家は、戦が長引くと馬の疲弊が甚だしい。良馬はいくらあっても足らぬものだ。もっと引いてこられるか」

「はっ、それが――」

「無理なのか」

「いや――」と言いつつ、信基はいかにも困ったという顔をした。

「何か差し障りでもあるのか」

「はい、実は太田資高様も馬をご入用とのことで、次の廻船で来る馬は、太田様にお届けせねばなりませぬ」

「何だと」

 朝興の顔色が変わる。

「かの者は、わが家臣ぞ」

「それは分かっておりますが、商人にとっては同じお客様ゆえ――」

 朝興が床几を蹴って立ち上がった。

 ――意外に短気なお方だ。

「構わぬから、こちらに回せ」

「とは仰せになられても、約束は約束です」

 さすがの朝興も、商人の世界の仁義は分かっている。

「それでは、その次の船はいつ頃、こちらに来る」

「いつ頃と仰せになられましても困ります。此度のようなことがない限り、良馬は、容易に手に入りませぬ」

 信基が顔を曇らせて首を左右に振る。

「致し方ないな。わしと同様に資高は無類の馬数寄。このまま取り合いをしていては、喧嘩になってしまうわ」

「ご尤も」

 信基がすかさず相槌を打つ。

「次の廻船で来る馬は資高に譲るとしよう。しかしその次は、こちらに回せ」

「はっ、しかと心得ました」

 信基は「よかった」とばかりに深く平伏した。

 馬を扇谷上杉家の家臣に渡し、代金をもらった信基は、朝興に誘われるままに江戸城に何日か逗留した後、品川湊に戻っていった。

「いかがいたした!」

 信基から「馬が来ない」という知らせを受けた資高が、品川湊の馬借まで駆けつけてきた。

「困ったことになりました」

 縁に腰掛けて頭を抱えていた信基は、資高の姿が見えるや土間に平伏した。

「困ったこととは、まさか、馬を載せた船が難破でもいたしたか」

「いえいえ、無事にこちらに着いたことは着いたのですが――」

 身の置き所もないといった様子で、信基が肩を落とす。

「それなら早速、馬を見せてもらおう」

「いや、それが叶わぬことになったのです」

「何だと。それはどういうことだ」

 しばし躊躇した後、信基は思い切るように言った。

「こちらの手違いで、馬を載せ換えた平底船が江戸湊に入ってしまったのです。どうやら水路を誤ったようで――」

「何だと」

 資高の顔色が変わる。

「それで馬はどうなった」

「陸揚げするや、朝興様の厩に引いていかれたとのこと。わたくしの許に、代金を取りに来いという使いが来ました」

「何ということだ」

 資高が、持っていた馬鞭を地に叩きつける。

「それでは、わしは待ちぼうけではないか」

「ああ、はい――」

 信基が弱りきったという顔をしたが、資高の怒りは収まらない。

「朝興め、何たることか!」

「お待ち下さい。これは手違いゆえ、わたくしが事情を説いて馬を引いてきます」

「朝興は、そんなことで『はい、そうですか』と馬を渡す男ではないわ!」

「そこを何とか頼み入ります。この場は短気を起こさず、わたくしにお任せ下さい」

 信基は馬糞臭い土間に額を擦り付けた。

「本当に馬を取り戻せると申すか」

「何とか、やってみます」

「分かった。必ず引いてまいれ」

 資高は苛立ちを隠そうともせず居丈高に命じると、御殿山に戻っていった。

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