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昔の時刻表《28》外出自粛でも旅の気分

自宅にいて旅の気分になれる筆頭は時刻表だと思う。駅名と時間の変化を追いなから、列車を上から下へたどってゆく。あれ、後からきた特急に抜かれてしまった、などと気づく。では、抜かれたのはどの駅だったかと、今度は少しずつ時刻を上に戻る。

古い時刻表だと、機関車が牽く列車や気動車(ディーゼルカー)の急行列車が多いため、途中駅で切り離して何両かが別の方向に向かうこともある。そんな列車は次のページはどこかな、などと探し始めることになってもう気持ちは列車の中。

列車名も長距離がたくさん走っていた新幹線が長距離の主流になる以前は、地名や鳥の名が多かった。鳥海、津軽、佐渡、つばめ、はくつる、ばんだい、など。この写真は大阪万博が開催されていた1970年夏のもの。日本中で豊かに多彩な名前を持つ列車が、在来線の良さできめ細かく各地を直行で結んでいた。でも車両はというと、今から思うとオンボロな列車も走っていた。

そして、遠くに行くのに普通列車も活躍していた。新宿から立川、甲府を経て松本や長野まで行く中央線の普通列車は毎日3本くらいあったし、そのころ私が始発から終点まで乗ったものでは、上野から岩手県の一ノ関行きや、北九州の門司を早朝出発して山陰本線回りで浜田、出雲、鳥取を経て京都府の福知山に夜遅く着く列車などで、とれも機関車にゴトゴト牽かれた古い客車列車だった。

それと、長距離列車たるもの特急はもとより急行の多くに食堂車が連結されていたし、今では風前の灯である車内販売も充実していた。客車は冷房なしが当たり前(冷房付は特急と寝台車とグリーン車)だし、冬の暖房にはムラがあって隣の座席ボックスは暑いくらいなのに自分の席はすごく寒かったりした。

乗客のマナーだって現代日本人が見たら卒倒するほどだった。列を飛ばして窓から乗ろうとする人、床に寝る人(夜行列車ね)、終点も近くなると床は食べかすの弁当のゴミだらけ!

それでも元気に旅をしていた。
私がそんな旅を始めるのは、この時刻表のころで新幹線が万博に合わせて12両から16両編成に長くなったころだった。そしてまもなく岡山まで伸びる。古い時刻表を眺めているとノスタルジックな気分にもなる。

#いま自分にできること #時刻表 #長距離列車

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