見出し画像

現代の耳でクラシックを聴く

クルレンツィスとムジカエテルナ

近頃世界のクラシック界を賑わせており、今年の2月に初来日も果たしたギリシャ人指揮者、テオドール・クルレンツィス率いる「ムジカエテルナ」。どこのオケなのかというと、ロシアのペルミというこれまた聞きなれない場所。しかしクルレンツィスはムジカエテルナ、そしてモルドヴァ生まれの女性バイオリニスト、コパチンスカヤとの組み合わせで今や世界中を席巻している。

彼らのことは、「レコード芸術」誌で音楽学者の伊東信宏氏が数年前から取り上げておられた。(昨年出版された『東欧音楽紀譚』を読まれることをおすすめする)今年の彼らの来日は、ひょっとしたら氏のおかげかもしれない。東京公演はすべてSOLD OUTとなっている熱狂ぶり。クラシックの演奏会には聴衆の腰が重い関西公演は僅かに残席があったが、非常に残念なことに仕事と重なりどうしても行けなかった。

気になっていたのにずっと聴けなかった彼らのCDを、ようやく聴けた。

聴いたのはチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲と、ストラヴィンスキーの「結婚」。「凄い」と聞いてはいたが、聴いてみて本当にびっくりした。クラシックの「王道」的な作品のはずなのに、こんなにも斬新で別の音楽のように聞こえる。冒頭のオケの入りが驚くほど弱音で、「おかしいな」と思ってボリュームを上げていくと、まもなくオケの音量がぐんぐん上がって爆音になり、慌ててまたボリュームを下げた。ダイナミクスのレンジがなんて大きいのか。

1楽章を聴いただけで聴く者を熱くさせ、「もっと」と惹きこんでいく。彼らの音楽は確かに「今」の音楽なのだ。聴く人の心を鷲掴みにしていく力も凄いけど、音で聴いているのに映像や舞踏を伴うような立体感がある。

作品の解釈ということ

作品の解釈が時代によって変化するということは、オルガニストとしてはバッハの演奏が最も顕著な例でわかりやすい。一昔前のバッハのオルガン演奏は粒が揃いすぎるほど整った演奏が多く、悪く言うと面白みに欠けることが多かった。10年前でも、私の師匠のマルガレータ・ヒュアホルツ氏はかなりエモーショナルな演奏をしていて、横でアシスタントをしていた私の方が呼吸を奪われる程だったけども、一般的にはバッハといえばクールで速い演奏が多く、むしろ私の師匠は異端的であった。

ところが、2016年にライプツィヒのバッハ国際コンクールで日本人初の優勝を果たした冨田一樹さんの演奏は、論理的かつバッハらしいエモーショナルさを感じさせる(これは私の持論だけど、バッハはかなりロマンティックでエモーショナルなところがある)ダイナミックなものだ。それがきっと、現代の呼吸なのだろう。その証拠に、彼は最高位と同時に聴衆賞も獲得した。私としては、ようやく私のイメージしていたバッハ演奏に太鼓判を押された気分だった。一度お話した時に、冨田さんはとても謙虚に「僕の演奏は自己流で…」とおっしゃったけども、やっぱり彼はバッハの「現代」を捉えているのだと思う。(ということは、我が師は少し先を行き過ぎていたのか?)

現代の耳

「現代の耳」という考え方にはとても興味深いものがある。今クルレンツィスがとても聴衆を捉えるように、バッハの演奏が変わってきているように。

昨年から演奏会をオーガナイズし、自分も年一回はソロコンサートをすると決めてからは、特にこのことが気になる。それは演奏内容(プログラム)の事でもあるし、作品の解釈でもあるし、作品の提示の仕方(演出)の問題でもある。一般的には今やCDはどんどん売れなくなり、演奏会へ足を運ぶ人の数も減ってきている。そんな時代だからこそ真剣に音楽の事を考え、またどのように音楽と向き合おうかと共に考える人を増やしたいとも思っている。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?