初体験(仮)13(終)

ルブタンのハイヒールは歩く為に作られていないと一歩踏みしめるごとに痛感する。親指と小指が順番に強く擦れて本当に骨まで削れるんじゃないかと思うほど、はっきりと痛い。しかもハイヒール慣れしていない上に身長の関係で脚も短い私はきちんと足を上げきれていないので、歩くたびにつまずく寸前になってしまう。毛足の長い絨毯の廊下に吸音されてなお、ゴッと低く響く音を立てて豪快に前につんのめって白のドレスの裾にはうっすらと黒い線が入った。早く行かねば、ケイタが銀座線の三越前の改札前で待っている。きちんとしたウォーキングをすれば硬い床では小気味良い響きをヒールが奏でるのだろうが、私のひとまず転ばないようにだけする歩き方では、杖をつく人の杖の音みたいな音しかしない。でも、その歩き方で一定の安定感を得てそこからは無事にエレベーターホールに辿り着いた。エレベーターに乗り込む。

鏡面加工されている部分に映る私の顔は涙で頬骨から顎にかけての黒いラインはさっきよりも更にはっきりと入り、ピエロメイクから般若メイクへと変身を遂げていた。
有無を言わさぬ剣幕でレセプションに鍵を渡し、取って返してエレベーターで下に降りる。

化粧を直そうにも、イヴ・サンローランの化粧ポーチはさっきの洗面台の上で、何も持っていない。涙ではあんなに簡単に落ちたアイメークが、必死に手で擦って落とそうとしても何故かビクともしない。焦れている間にエレベーターは下に着いてしまった。もう行くしかない。覚悟を決めて地下鉄に直結のA7出口に行くと既にシャッターが下りていた。足を踏み出すたびに肉を通り越して骨まで響くように足が痛い。
ここで私はとうとうヒールを両手に持って、隣のA8出口へと向かった。裸足になって一気に駆け足になってペースが上がる。真夏のコンクリートジャングルはちょっとでも外に出ると本当に暑さと湿気に毛布のように包まれてしまい引いていってくれない汗をかいてしまう。ハンカチで顔を押さえるとファンデーション色がハンカチに移ってしまった。A8出口から駅の階段を下り始めると人が増え始め、すれ違う人の全員から冷たい目と好奇の目を一身に受けた。今の私は所々が黒くなってしまった白のワンピース、肩にかけているのはおっさん仕様の黒のショルダーバッグ、メイクだけでなく必死に駆けている私の表情はもはや完全に般若と化していて、両手に持っているルブタンのハイヒールは、五寸釘の刺さっている藁人形にでも見えるかもしれない。そんな状態だから冷たい視線を浴びているだけ…あくまでそういう事だ。私の本質に対して向けられている視線ではないんだ。と必死に言い聞かせないと、一歩も足を出せなくなりそうなほど強烈に視線の棘が刺さった。階段が終わりいよいよヒールを履き直す。目の前には改札が見える。ケイタらしき姿はまだ見えない。恐らく回り込んで行くもう一つの改札口の方にいるのだろう…。
手入れを怠ったバラ園の通路のように一歩進む度に視線の棘が刺さり、動けなくなりそうになり思わず下を見る。ハイヒールの輝きが私に少しの勇気をくれた。これであと少し、ケイタの所までなら歩く事ができる。
顔を上げると、よく知った横顔が半蔵門線の方に向かって私の前を通り過ぎていく姿が見えた。
坊主頭じゃないから随分と印象が違うが、間違いなく古賀くんだ。向こうは全く気付く気配が無い。本当は女の子が好きなのに、私の気持ちを利用していた古賀くんは許せない。でも感情はそんな私を裏切って喜んでいる。そして私には決して見せてくれなかった本当に好きな人に対して向ける横顔…それはほんの一瞬だったけど、しっかりと私の脳裏に焼きついた。その視線を一身に受けている女性はどんな娘なんだろうか。私が逆立ちしても勝てない相手、それはどんな女性なんだろう…色々あったけど今なら素直に、素直に敗北を認めて古賀くんをよろしくね。と心から言える気がする。そんな思いで古賀くんの視線の先に目を移した。
どこにでもいそうな…そう。どこにでもいそうなスーツを着た普通の”男”だった。年は私たちより少し上だろうか、手を繋いでいるわけでも、距離が密着しているわけでもないが、解る人が見れば2人は明らかにそういう仲だと悟れるだけの雰囲気を背中から出している。
”姫さま気取りが可愛いかどうか鏡見て自分で判断できないのかね?かと思えばやたらとガッついて来るし、本当にキショいったら無い”
あの時、図書館で私をズタズタにした彼のセリフは彼が本当は女の子が好きだったからじゃない…。そんな…呆然と見送っているとあっという間に2人は人混みに溶け込んでいってしまった。

もう、動けなかった。

……ちさんですよね?藍渕さんですよね?
言われてハッとする。横にはスキニージーンズに黒のTシャツのラフな格好の男が立っていた。スーツで決めていた写真と比べると半分くらいのカッコ良さしか無いが確かにケイタだった。目力が写真と比べたら圧倒的にない。身長も170センチとあったのだがヒールを履いた私より辛うじて目線が上程度なので165センチくらいしか無さそうだ。

曖昧に頷くと、なんか大変でしたね。といって手を取ると、壁際の旅行パンフレットのラックの所までエスコートしてくれて、それにつかまらせてくれた。場所はもう会社から聞いているので、ちょっと待っててください。タクシー拾ってきますね。といってテキパキと動く姿を見ると、とても好ましく見えて、写真と違う事などどうでもよく思えてきた。
1分ほどで戻ってくると、再び手を取ってくれて上に行くのに地上行きのエレベーターを使ってくれた。
ボロボロの心に一つ一つの心遣いが沁みてきて、さっきまでとは別の嬉しい涙がこみ上げてくる。それに気づいてまた大丈夫?と優しい声をかけてくれるケイタ、かろうじて頷くのと同時に目の前でタクシーのドアが開いた。この人がこれから私を救い上げてくれる。そう確信できた。さっきまでいた超一流ホテルを見上げていると、先に乗って。と穏やかな声で更にケイタがエスコートしてくれる。

私の初体験へ向かって、男2人を乗せたタクシーは都心の光り輝く怪しい闇へと溶け込んでいく。

(終)

#小説 #セクシャルマイノリティ #大人向け

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