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富岡第一・第二中学校三春校の講演会で考えたこと

未来の準備室の、青砥です。ふだんは「高校生びいきのカフェ」を白河市で運営しています。

#地域 #地方 #高校生 #サードプレイス #まちづくり #キャリア教育 などのキーワードで、学校や先生から講演を頼まれることがあります。昨年度に小学校で講演する機会をいただいたので、小中高の全校種で話した経験がとりあえず1回以上あることになりました。

今日お声かけいただいたのは、富岡第一・第二中学校三春校での「教育講演会」でした。

富岡第一・第二中学校三春校?

少し複雑な名前のこの学校のことを、依頼をいただくまで(恥ずかしながら)私も知りませんでした。

富岡町には第一・第二ふたつの中学校がありました。両校とも、2011年3月の福島第一原子力発電所の事故に伴って、当地での教育は不可能になりました。富岡町を含む双葉郡では、全町避難が強いられ、福島県内外への避難を余儀なくされたからです。

第一・第二ふたつの中学校が一緒に避難したのが、阿武隈高地西側に位置する三春町です。富岡町から西に約60km離れています。

曙ブレーキ三春工場の工場跡地を校舎として「富岡第一・第二小中学校三春校」が開設されたのは2011年9月。幼稚園、小学校も開設されました。三春町や郡山市に避難した児童・生徒たちが、スクールバスを使って通う学校です。仮設校舎である三春校に学び、巣立った子どもたちがたくさんいます。

(工場の事務棟を再利用した校舎)

富岡第一・第二中学校には、三春校の他に「富岡校」ができました。富岡町全域に出されていた避難指示が2017年4月に一部解除。1年間かけて富岡町内に小中学校を開設する準備が行われ、2018年4月から「富岡第一・第二中学校富岡校」ができました。

現在、「三春校」「富岡校」で、第一と第二ふたつの中学校が、ふたつの校舎を使って、それぞれ授業を行なっています。テレビ会議システムで「遠隔授業」を行う取り組みもあります。校長先生曰く、システムのタイムラグも慣れっこで、生徒同士お互いコミュニケーションを上手に取っているとのこと。

ふたつの校舎を運営する富岡第一・第二中学校ですが、「三春校」は2022年3月に閉校することが決まっています。現在の中学3年生は7人、2年生は0人、1年生は3人と、生徒数が減少していること、富岡町への帰還をさらに進めたいこと、富岡町出身であっても、避難先の学校に入学する人が多くなったことなど、「三春校」の役割は終わりに向かい始めています。

いまの中学1年生は、幼稚園から三春校に通い始め、閉校が予定されている2022年に卒業する生徒たちです。あらかじめ、自分の母校が無くなってしまうことが決まっている生徒のみなさんです。

最後の「三春校」世代の中学生が、富岡第一・第二小学校の6年生の時に制作した映像が「ぼくらの三春校」です。

「ぼくらの三春校」富岡第一・第二小学校三春校アーカイブプロジェクト

一般社団法人ヴォイス・オブ・フクシマと、福島県富岡町教育委員会の制作です。映像は、メイキング7分、本編30分。

当時小学6年生の児童3人が、「三春校」の開校や運営に携わった大人や保護者にインタビューを重ねて、自分たちの母校「三春校」のアーカイブを残していく映像になっています。

「2022年閉校になることが決まりました。」

映像の冒頭のやりとりは、「三春校」が閉校になることを伝える小学校の校長先生とのやりとりです。

「自分たちにとっては、当たり前の学校だけど、ふつうの学校とはだいぶちがうみたいです。」

当時の富岡町長さんや、役場の教育総務課長さんが、県内を奔走してやっと見つけた工場跡地の話。開校まで1ヶ月を切った段階で始まった校舎の整備作業。全国から寄付された机やロッカー。はじめての空間でおっかなびっくり投稿した児童たちの様子。避難先の学校では馴染めなかったけど、三春校では通えるようになった児童の話。

避難先でも、富岡の子どもが富岡の学校に通えるように、という大人たちの不断の努力が、インタビュアーの子どもたちにかたりかける声から、垣間見える映像になっています。

「ぼくらの三春校」を見て思ったこと

私が思ったことは2つでした。

1)コミュニティ・自治体と公教育の役割ってなんだろう

「当たり前だと思っていた僕たちの学校は、たくさんの人に支えられていました」

映像中の小学生の言葉です。ドキュメンタリーに出てくる大人たちは、必死で学校を再開させようと奔走します。「学校」というシステムは、全国画一、どこにいても誰でも学べるように政府によって組み立てられたものです。ふだん、その制度の運用者を意識することはありません。

「三春校」は違います。あの誰々さんが、これをやってくれた、あの先生が、こうやって工夫した。富岡町というコミュニティ・自治体が、子どもたちの学ぶ権利を守るために、必死に努力しています。

明治維新後に小学校をつくるために、あるいは第二次世界大戦後に新制中学校をつくるために、時にお金や労働力を供出しながらも、学校を作った無数の地域の大人たちのことを思いました。次の世代のために懸命に努力する大人たちの姿(その回顧の言葉)は、公教育のあり方について考える機会をくれました。

学ぶ機会を現場の努力で守り通したのが、住民であり、地方公務員であり、保護者だったことが、印象的でした。

2)無くなる母校という悲しみ、終わりが予見されることの幸せ

「日常生活そのものが大切なんだ 身近な友達や家族が大切なんだ」

そんな言葉で、ドキュメンタリー後半はクロージングを迎えていきます。

この映像は、「僕たちの母校がなくなる」ことを出発点に進んでいきます。たとえ工場跡地の臨時校舎であっても、入学から6年、9年とこの「三春校」で過ごした児童生徒たちにとっては、まぎれもない母校であることは疑う余地がありません。そこが、彼らのせいではなく無くなってしまうこと、一度原発事故によって故郷を離れざるを得なかった富岡の人たちに、もう一度喪失を味あわせてしまうことに、事故の重大さをもう一度感じざるを得ませんでした。

そしその一方で、終わりが予見されることの幸せを思いました。

原発事故は、突然やってきた人災による悲劇でした。数十年の人生にわたって、あるいは先祖代々数百年にわたって、住んでいた土地を突然離れざるを得なかった事故でした。その土地に対する「葬い」や「祈り」の時間もなく、着の身着のまま、その場所を離れざるを得ない事故でした。

今回も「三春校」にまつわる人は、三春校を離れる寂寥の気持ちを持たざるを得ません。しかし、今回は「4年後」です。「4年後」だから、映像や写真や言葉を残そう、という気持ちになれる。それは、もちろん寂しいことだけれど、人が気持ちを整理していくのに、必要な時間を重ねられるということでもあります。現在の日常生活がいつか終わってしまう日常だからこそ、身近な人と時間を大切にしていきたいという気持ち。

それを持つことができ、様々な人とその気持ちを共有できる「三春校」は幸せだなと思いました。そしてそのような、葬いや祈りの営為すらも許されなかった原発事故の悲惨さを、このドキュメンタリーは逆照射するように感じたのです。

今回の記録が、このように形に残ることは、とても意義のあることだと思いました。

講演会で伝えたこと

私の講演会は、基本的にカフェ EMANONの紹介、それを設立するに至った経緯、そこで起こったことを話すことが多いです。(自伝の域を出ませんが...)

特に中高生には、「あったらいいなを口にしよう」ということをまとめの部分で伝えます。いまの中高生は、いまもっとも若い世代です。子どもが少ない、若い世代がいない、人口減少社会だと、ずうっと聞かさせている世代です。課題がたくさんあるので、地域や社会や復興のために何ができるか考えようと問われてきた経験が、幾度もあるのではないかなと思います。

それはある種の面で正しいのですが、一方でそれは、中高生が少し考えただけでは到底解決できない巨大な問題です。いまの大人が生み出して、いまの大人が解決できない問題。それは、大人は向き合わなければなりませんが、子どもはそれに責任を感じる必要はありません。少なくとも、中高生のうちは責任を感じる必要はありません。

まして、自分以外の他者に働きかけるということは、中高生にはとても難しいことです。経験や知識がない状態で、自分より大きなもの(社会や地域)を変えよう!というテーゼを与えられても、行動には移しづらい。そして往往にして、子どもたちが取り組む授業や事業は短期的な時間的制約を負っています。そのような短期間での成果を期待された中高生がアウトプットするのは何かといえば、大人への忖度です。まあだいたいこういうことを言えば誉めてもらえるという言葉や表現です。子どもは賢いので、評価をもらえる表現を察することができます。読書感想文や、自由研究しかり。

自分が所属する社会や地域に貢献したい!という気持ちはとても大切です。一方でしかし大人は、それを重責の形で押し付けるようなことはしてはいけないと思っています。

まして若い世代は、これからもずーっと、人口減少社会だ、大変だ、と言われ続けます。そのプレッシャーから出てくるアウトプットが、上の世代に忖度した何か、であるなら、この社会は本当に縮小していくしかありません。悲劇です。いまの中高生の人口は少ないかもしれませんが、その次の世代はさらに人口が少ない。中高生が「あったらいいな」と口にして、それが地域の力で実現できる社会こそ、若い世代が生きやすい社会だと思っています。若い世代が生きやすい社会が、人口減少社会で最優先に実現するべき課題だと思うからです。

それは、私のような中通り育ち中通り在住の者が言うのもおこがましいのですが、被災地であっても同じだと思います。胸を張って中高生たちが、「あったらいいな」と口にできる地域社会であれば、その地域は残っていくのではないでしょうか。

時間がなく、直接中学生とお話しする時間がなかったことが心残りでした。しかし、貴重な機会をいただいて、本当にありがたかったです。

このような機会をいただいた富岡第一・第二中学校三春校の皆様、そして講演にお声かけいただき、さらにDVDを寄贈していただいた一般社団法人ヴォイス・オブ・フクシマの久保田様に、改めて御礼申し上げます。

もうすぐ夏休み、「三春校」の皆様が、充実した学校生活を送れますように!


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