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「東北といえば湯澤」と言われたいと思っていたーーー被災地に通い詰めた大学生が、福島白河で1年間働いてみて考えたこと| EMANONスタッフインタビュー

西宮出身の灘高生が「東北」に出会うまで

青砥室長)
湯澤魁さんは、兵庫県西宮市出身の明治大学4年生。福島市で僕と出会ったのをきっかけに、大学を休学して、白河市のコミュニティ・カフェ EMANONで「高校生担当」として働いてもらいました。1年間の勤務、本当にお疲れ様でした。

湯澤)
お疲れ様でした。

青砥)
僕とはじめて会ったのは、2018年の冬、福島市でした。どうしてそもそも、東京の明治大学生なのに福島に来ていたんだっけ。

湯澤)
室長と出会った頃は、福島大学の木村元哉と一緒に「リプラボ」という廃炉作業中の福島第一原発を視察するサークルをやっていました。また。南相馬市に訪れたりもしていました。

青砥)
出身は関西なんだよね。

湯澤)
阪神地域の西宮出身で、中高は神戸市の灘高校でした。在学当時は生徒会活動をしていて、「東北合宿」で被災地を訪問しました。それが東北との出会いで、被災地で活躍する人たちの姿を目の当たりにしたんです。そのとき、純粋にかっこいいと思ったんです。

青砥)
当時の湯澤の思っていた「かっこいい」って何だったの?

湯澤)
印象的だったのは、気仙沼市で活動するNPO法人底上げの矢部さんでした。矢部さんのかっこよさ…ふつう(?)の被災地支援が”助けてあげる”だとしたら、矢部さんは”一緒に走っている”。実際にマラソンもやっている方なのですけど(笑)
矢部さんも、最初は避難所になっていたホテルの清掃や避難物資の配布など、ボランティアをやっていたそうなんです。それをきっかけに地元の人との関係性をつくっていったと聞いています。その関係、ご縁を元に、”被災者のために何かやる”じゃなくて、”自分がやりたいからやる” それが”結果的にみんなのためになる”…そういう支援の仕方が、当時の僕には新鮮でした。

青砥)
コミュニティ・カフェ EMANONは、地方の高校生のための施設を謳っているのですが、代表の僕自身、あまり”支援”を強く意識しているシーンは少ないですね。共通点があるのかな。当時の湯澤には、それが新鮮だった。

湯澤)
当時高校生の僕にとって、人の役に立つことって、”自分の外”で起きることだと思っていた、と言えばいいでしょうか。例えば募金活動とか。募金したお金を役立ててくれるのは、どこかの知らない誰かで、自分ではない。受益者と、支援者の関係が、一方通行。それが、矢部さんと気仙沼の人たちの関係はそうじゃなかった。自分のために自分が動けば、周りが変わる、周りのためになる…そんな関係性を見せてもらったように思っています。

青砥)
なるほど。そもそも湯澤が、人の役に立ちたいと思っている理由ってなんですか?

湯澤)
自己顕示欲、じゃないですかね。自分が、この社会に存在している意味を感じたい。

青砥)
おお。

湯澤)
僕、高校生のとき、自分が存在している意味を、自分で認められなかったんですよ。「僕はなにもできない」って、思っていたんです。クラスメイトや同級生はみんな尖っていて。PCと言えばtehuとか。クイズといえばカワカミタクロウとか。いつもいつも、尖れって言われて育って来たような感じです。僕がその環境で生きていくのに、〇〇と言えば湯澤って何か見つけたかったんです。

青砥)
それが、人の役に立つ、とか、東北というテーマだった。

湯澤)
はい。担任の前川先生が、釜石にボランティアに行っていて。その話を教室で聞いて、まず「見てみたい」って思ったんです。最初は純粋に好奇心で。
僕が最初に行ったのは、宮城県の名取、閖上でした。はじめての訪問なので、津波の前後で、なにが変わったとか、視覚にはわからなかったんです。でもガレキ撤去のボランティアをしているとき、土の下から生活用品がたくさん出てくるんです。お酒の瓶や、写真のアルバム。土の下から、僕も使っているような生活用品が出てくる。そこで、自然による理不尽さを強く感じたんです。

行くまでは、自分の好奇心のために東北に行くってすごく抵抗があったんです。阪神出身で、1995年当時のボランティアの功罪みたいな話もよく聞かされて育ったので。でも、実際に東北に行って、肉体労働をして、被災者の方からありがとうって、言われて。来てよかったんだなって安心感がありました。そして、僕のほうこそ、ありがとうだなって思って。

青砥)
何もできない自分、は東北に行って変わった?

湯澤)
うーん、僕はそこから、東北にしがみつこう、すがろうとしてしまったんです。学校で「東北と言えば湯澤」を言われることを目指したかったんです。高校でもずっと東北と関わろうとしました。大学受験を失敗して入学した明治大学も好きになれずに、キャンパスより自分の居場所は東北だって思い込んでいました。

「なにもできない」けど、福島に通い続ける大学生

青砥)
その中で、津波被災地だけじゃなく、福島にも足を向けるようになったの?

湯澤)
大学で最初に親しむことのできたコミュニティが、明治大学ボランティアセンターで。高校の卒業旅行で、それまでより深く福島県の原発事故やその被害に向き合う機会を得て、そのまま大学入学後も福島に通いました。福島は原発の被害が継続していたし、風評被害が強かったこともあって、津波被災地以上に行くだけで「よくきてくれた」と言ってくれることが多くて。また、「明治大学生の湯澤」ではなく「灘高出身の湯澤くん」として認識されていたことも大きかったかもしれません。自分が承認される場が、浜通りでした。

青砥)
大学生1、2年生が浜通りでできることって、どんなことだったの?

湯澤)
正直、「自分が何もできない」ということは、福島でも改めて突きつけられて。本当に、行って通っていたばかりで、なにも「できた」「やった」ことが思い浮かばない。それは、高校生の時も、大学1年生の時も気が付いていたはずなのですが、やっぱりその事実に向き合わなきゃいけませんでした。そんな時、通っていた南相馬市小高のおばちゃんから、「あなたはまだ、何もできないのだから、何かできるようになってから、ここにきなさい」と。「きてくれるのは嬉しいけど、でもあなたはなにもできてないでしょう」と。

青砥)
けっこう、厳しい言葉だね。でも、福島県に来るのは止めなかったんだね。

湯澤)
そうですね……だから一旦、自分が取り組んでいたプロジェクトを進める、やり遂げることだけはやろうと考えを改めました。本当にそれまでは、ただただ足を運んでいたんですけど。そこで一緒に「リプラボ」に取り組んだ元哉の存在は大きかったです。木村元哉は、広野町出身の当時福島大学生で、同い年。彼のことをすげえって思ったことがあって。彼の地元の広野町も全町避難をしている町で。避難者として、いじめられたことあるの?って彼に聞いたら、あるって言うんですよ。「いわきの病院は双葉郡の奴らで混雑している、あいつらは税金払ってないのに」とか言われたとか。でもそこで彼は、その「噂」を、本当かどうか全部自分で確かめて。いじめられている事態をチャンスだと思って、誤解を解くために行動して。行動することに価値があるって、気がつかされました。

青砥)
なるほど。そんな「リプラボ」での時間を経て、そこから1年間、白河に来るわけだけど。福島県白河市は、東日本大震災当時、土砂崩れによる被災、お城の石垣の崩壊や、放射性物質の飛散の影響を受けた場所。でも、三陸の津波被災地や、避難指示の出された双葉郡に比べれば、報道も少なくて。いまはじめて白河を訪れる人がいたら、ここを被災地だと認識するのは困難。そんな、福島県中通りにある小さな城下町です。

湯澤)
元哉を見ていて、自分は自分が中心になって行動するイメージはわかなかったんです。でも、どんなに有名な社会的企業にも、代表の右腕がいるよなとは思っていて。僕は誰かの右腕になりたい、活動の「伴走」をする活躍の場もあるんじゃないかって思っていました。そこでたまたま青砥さんに声をかけられて。もしかしたら、右腕になれるかもって思って白河に飛び込みました。

青砥)
1年間「高校生担当」としてのスタッフだったけど、高校生のために来た!わけじゃないってことでいいのかな?

湯澤)
正直に言えばそうです。僕は、自分が「伴走」したい相手って誰だろうって、思っていました。でも、そもそもどんな人が活動できるのか、人はいつから自分が中心になって活動できるようになるのか、わからなかった。高校生と一緒にいたら、高校生が火がつく瞬間に立ち会えるんじゃないかって。そういった期待を持っていました。

高校生に伝えたかったこと、高校生だった自分に伝えたかったこと

青砥)
高校生が、火がつく瞬間に、立ち会えましたか?

湯澤)
実際に1年間高校生と向き合ってみて、何かの"瞬間"をきっかけに、人が変わった場面はなかったです。でもはっきり、常連のRちゃんは、変わったと思います。臆せず、人と話せるようになったように思っています。確かに人は変わるんだって、Rちゃんのおかげで思えます。

青砥)
湯澤が、高校生のためにしたことって、何ですか?

湯澤)
ただひたすら、聞いて話すだけですね。あなたを僕は認識しているよって、伝えたかっただけです。

青砥)
それは、一聞しただけだと「だれでもできる」と思ってしまうことかもしれないね。一方で「湯澤といえば〇〇」を目指していた、自分の過去との向き合い方のようにも思えるよ。

湯澤)
白河市に来て最初のころは「主体性」って言葉をよく口にしていました。「主体性」が大事だ、「主体性」がないと意味がないって。でも僕自身「主体性」ってなにかって、全然わかってなかったんです。なにか純粋な主体的な精神があって、そこから行動が生まれるって思ってたんです。でもそれは実は逆で。行動した結果、気持ちも主体的になって行くって、思えるようになったんです。だから、みんなが安心して一歩踏み出せるように、まずはあなたの話を僕は聞いている、あなたのことに興味があるって僕は伝えたい、と思って話を聞くようにしました。

青砥)
それはいつ、誰を見て感じたんですか。

湯澤)
ひとつのきっかけとしては、高校生と一緒に取り組んだ、「しらかわ高校生天文合宿」です。一緒に白河で星の見られる施設を訪れて、天体観測をする、という活動なんですが、メンバーはみんな、自分たちで何かできるとか、何かオリジナルのイベントをやるとか、想像もしていない高校生...だったように思います。まわりにそういう人もいないし、空気を読むことが良いって感じているようでした。
でも彼らは、実はやりたいことがあって、それを口にしていないだけだったんです。話を聞いて、一緒に活動を立ち上げて、一緒に星空を見ることができて。僕にとっても、大切なコミュニティになりました。

青砥)
受動的、というか、大人の指示で”やらされ”たり、空気を”読まされ”たりする高校生のことを気にかけている姿には、湯澤の問題意識を感じていました。一方で、都市部の私立中高一貫校や、いくつものNPOが復興支援で立ち上がっている地域と、いわばふつうの地方都市・白河とでは、高校生を取り巻く環境が大きく違う。自分の経験や、見て来たものとのギャップのある環境で、はがゆいこともあったと思うけど。でも腰を落ち着けて、目の前の高校生と真剣に話すことを誠実にやってくれたと思っています。いま、なにか白河の高校生に言いたいことはありますか?

湯澤)
動き始めたら、必ず助けてくれる人がいるってこと?でしょうか。
一歩踏み出したら世界は変わるし、必ず味方はいるって言いたいです。
大きな災害の被災地は、みんな自分のことで精一杯だから、助けをどうしても地域の外に、求めなきゃいけないところがあると思う。助けてくれる人を外から連れてきたりせざるを得ないところがあったり。でも中通りは、白河は、このままじゃまずいなと思いつつ、動けない人が多い印象を持ちました。だから、そこで誰かが動き出せば、それを支えてくれるはず。自分をきっと見てくれる人がいるから、自分を諦めない、肯定してあげていいって、伝えたいです。応援してくれる人がひとりでもいるってことは、自分が肯定されているってことだから。「どうせ無理」じゃなくて。やりたいことがあったら、話してほしい。一緒にやろうって、誰でもいいから、言ってみよう。

青砥)
ありがとう。最後にもうちょっと質問です。湯澤といえば○○に、答えは出た?

湯澤)
ないですね。ないですけど、それでいいんですよ。まあ、まだ若いし(笑)

青砥)
それは腑に落ちた答え?

湯澤)
はい。行動が自分をつくっていくってわかったから、いまはまっさらでも、これからだってわかりました。エマノンの近くに、ゲストハウスができたら、夜を明かして、妄想話を膨らまして、実際の行動にする種にしたいです。

青砥)
ありがとう。これから休学を終えてもう1年、東京で大学生をやり直すわけですが。いまの湯澤にとって東北や白河って、どんな場所ですか?

湯澤)
1年間、自分をさらけ出し続けたので、逆に怖いものがないというか...安心と挑戦する勇気をもらえる場です。地域の方がいつも見守ってくれているのを感じられるし、高校生のことを後押しするためにも、まず自分が背中を見せたいと思います。新年度の目標は、いままで、怖がったりとか、自分らしくないとか...理由をつけて逃げてきたことにチャレンジすることです。まだ卒業までには単位が足りないので、1年ぶりの授業をちゃんと受けること。ですね。がんばります!

青砥)
応援してます。白河のありとあらゆる人と、話してくれて、会ってくれて、そして話を聞いてくれて、ありがとう。この街には確かに、湯澤に応援されて頑張ることができた高校生がいます。また湯澤が帰ってくるときに、あるいは高校生が大人になったときに、人の集まる場所が続いけていくためにも、白河にゲストハウス作ります。また時間が経ってから、一緒にまた話したり、一緒に何かを挑戦できたら嬉しいですね。1年間、本当にお疲れ様でした!


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