見出し画像

教えるということ

写真はJUNE FLORAL開講5年目くらいの作品展の様子です。生徒の皆さんのスキルは大したものだと今でも感服します。
教室を開いたころは,自分の知っていることを全て生徒さんたちにお教えしたいと毎時間全力でレッスンに立っていました。そして自分の学んだこと,師が教えてくださったことをそのまま伝授してさしあげたいという生徒さんへの愛情と教えてくださった先生への感謝がレッスンのエネルギーの源でありました。



教え始めて10年ほど経つと,疑いを持ち始めました。もちろんそれまで知識を広げスキルを磨くために様々な場に出ていました。それでも何か疑い続けるわけです。なぜでしょうか。尊敬する先生と自分は全く違う人間だからです。教えていただいたことがすべて正しいとする感覚は必ずしもそうでないことに気づくわけです。育った環境や教養の違い,自然の見方など全く違うわけです。テクニックに関してもあるステップまでは同じですが,身長は花を見る時に大切なポイントであることは腕の立つデザイナーならだれでも知っていますし,指先の力の入れ具合とか体のバランスの違いとか,そういう小さな違いがデザインの違いを生み,美という感覚の違いを生みます。

そして一番大きな違いは,教え始めたばかりの自分は,先生の100万分の一ですらないということなのです。一を教えるのに最低でも一万のことを知って(身に付いて)いなければなりません。生徒だった自分が先生の芸のどれほどに触れることができたかを考えればわかると思います。小さなものは大きなものがどれほど大きいかは見当もつきませんし,たった一つのことさえも自分色を通して身につけているかもしれません。

だから自分の学んだことが,また正当とすることがすべて正しいと思わなくなるわけです。そこから本当の精進が始まるといえるでしょう。教え始めるということはスタート地点に立てる資格を持ったにすぎません。そしてスタートできたら,教え続ける限り,学び続け磨き続けなければならないわけです。

「枯れる」という言葉があります。それは磨きぬいて磨きぬいてようやく余分なものがなくなり真髄だけが残る,そしてその真髄から見えない何かが宇宙につながっていることだと思います。

「枯れる」すなわち「無」になるときこそ真の芸事を教える人間に成れたと言えるのではないでしょうか。一生「枯れる」ことなどないかもしれない。けれども「枯れる」ために自分を磨くのではなく,ただ教えるためにその道を歩むために磨き続ける。

それぞれの生徒に合ったものを生徒が必要とする分量で教えていきます。だから先生から受け取るものは生徒一人一人が違います。けれども師というものは,生徒に残すために磨き続け,生徒はいつの日か自分の個性をプラスして伝えるわけです。そうして芸術は発展していくのではないでしょうか。芸は今までそのように発展してきたのではないでしょうか。

30年そこらで知ったようなことは言えませんし,日本人として国際交流を通じて花の道を歩んでいると自覚するにはまだまだ不足しています。各国の文化はもちろんですが,母国である日本の文化をもっともっと肌で知らなければならないと思います。

先日,花の道ではありませんが師範になられたばかりの方にお会いしました。教えたいというその熱意は,昔私が持っていたものと同じでした。自分が教えられたことがすべて正しいと信じて疑わないその姿勢を微笑ましく感じました。先生と呼ばれる立場であり続けるには,自分が習得したと思っていたものへの疑問を含め,真の芸術の前に立ちはだかるいくつもの壁がやってくるでしょう。葛藤の日々に耐える強さを持つこと,そして一生疑問を持ち精進をつづける先生になってほしいと思います。

自分が壁に当たってばかりの日々ですけれど…。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?