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時代のながれと当たり前という思い込み

数年前、聴覚障害のある事務員さんが
転勤してきたことをきっかけに
職場での事務とのやりとりは内線電話に変わり
パソコンでやりとりするチャットを
使用するようになった。
パソコンでLineをやるような感じである。
そうすると、周りの人とのやり取りでも
チャットを活用する機会が増えてきた。

私は当たり前に
人間味のあるやりとりに温かさを感じ
直接、相手の席まで話に行っていた方だが

これまで、根が話好きな私が
相手の座席まで用件を伝えに行くと
その時、必要のない話までしてしまい
時間が長くなってしまったり
行き着くまでに、他の用件を頼まれたり…

自席へ戻り、ふと、息をつくと
すっかり、用件を忘れていたことに
気づくことも。

それでも
「近くにいる人にチャットを使用するなんて、水くさい…」
「面と向かって話した方が…」
という声を、その頃は当然だと思っていた。

先日、職場で若い子たちが
上司のことを話しているのを耳にした。

「大切なことは、チャットで送ってもらわないと困るよね。
話してもあとに、何も残ってないし…」

(大切なことは直接話すんじゃないの?)

と思ったが、一方で

(今は、そんな時代なんだ…)

と、どこか納得できてしまった。
確かに当たり前は変化してきた。

和式トイレが洋式トイレに変わり
フィルムカメラからデジタルカメラになったかと思うと
今は、ほぼスマートフォンになっている。
当たり前は、常に変化している。

当たり前のむかっている方向は
ユニバーサルデザイン的なのかも…と
過去の当たり前に、思いを巡らせてみた。

新しいモノは使い始めこそ、その変化に戸惑い
どこか、よそ者を受け入れるような気持ちもあるが

日常化すると慣れてくる自分がいて
そこに人間味や温かさまでもが感じられてくる。
チャットにも慣れてきた今では、そう思える。

不思議なものである。

時代のながれは、少しの違和感をまといながら
私たちの生活にスーッと入り込み
いつも私たちの思い込みを
払拭してくれている。

10月の課題本『騙し絵の牙』からのエッセイでした。

執筆意図
電子書籍の台頭などにより時代の変化に戸惑っている出版業界の様子から誰にも止めることのできない時代の流れを感じたので、そこをエッセイのテーマにしました。
内容については、誰にも止めることのできない時代の流れを感じたエピソードを、読んで共感できるように、伝わるように書いたつもりですが…。
書き方を工夫したところは、尻切れトンボのようになってしまわないよう、終わりの部分で受け止められるように、いつもよりも意識して書きました。


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