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お父さん高校生日記 Vol.2 遠回り

今後はゼロ高での体験や起業までの道のり、現在できるアウトプットをしていく記事も書いていたのですが、普段あまりしない過去の話を少しだけ。


話は幼少期まで遡り、良くある話ですが両親が離婚。東京から母の地元 北海道 函館に引っ越したのですが、精神的に不安定な母で物事の道理や常識と言うものを教えてくれる大人は側にはいなかった。

生活保護を受けていた時期もあり、小学校の低学年の頃から2歳年下の弟と近所のスーパーから食べ物やお菓子をくすねて空腹を紛らわす事も日常茶飯事でしたが、見かねた祖父母の近所に引っ越してからは食事には困らなくなりました。祖父母は怒ったりする事もなく、何かを教えてくれるわけではないけれど、いつも優しくご飯を用意してくれて、唯一の娯楽と言えば相撲や野球中継をよく見ていた記憶が残っている。結婚して子供ができて父になり、妻から学んだ事なんですが、日々のちょっとした事に幸せを感じることができれば人生はより楽しくなる と今は思う。

そう考えると祖父母と過ごした日々も幸せだったのかもしれないですね。

ギリギリのところで道を外れず生きているのは2人のおかげだと感謝しています。

最近では変わっていると自覚して変わり者に勝るものはなしの精神で自分を肯定していますが、 小学校〜高校くらいまでは普通の生活に憧れていた。

中学生になると新聞配達をして、普通の子達がしているように洋服を買い、タバコを吸いはじめ、特に興味のない塾にも自分で稼いだお金で行きました、中学生ながら一人暮らしをする事に憧れて不動産屋の貸物件の募集を眺めたりも良くしていました。家で勉強なんてした事は皆無ですが、学年でトップ10のテスト結果を取っても、協調性や常識が欠けていること、遅刻なども多かったので内申点はG〜Fランクと低く、当時は納得できなかったのを覚えています。

小中学校では野球をやっていて、今でも好きなんですが昔からヤクルトスワローズのファンで、野球をやるために地元でもそこそこ強い工業高校に入学。貧しかったのでバイトと部活を掛け持ちしたいと相談したところ、そう都合よく受け入れてもらえず、現実的に用具や遠征費などがかかる事を考えると諦めるしかなく、始めて抱いた夢が打ち砕かれた瞬間だった。



目標もなく生活のためにバイトをしながら、スロットや麻雀にもハマっていた。当時のスロットは花火アレックスなどの四号機がなかなか面白く、高設定台の抽選やモーニング(朝一からボーナスの入った状態)のために学校をサボって並んだり、阿佐田哲也桜井章一に憧れて、連日夜通し麻雀を打っていた時期もあった。

今では時効だがここでは書けない事もたくさんした。。


そんな生活をしていた結果、単位が切れてしまい卒業できず、、

当時は目の前の現実を生きる事に精一杯で将来の事なんて考えた事もなかった。



高校中退後 〜
18〜20歳   飲食店 店長
20〜22歳   工場勤務(TOYOTAやDENSO)
22〜23歳   パチプロ(北斗の拳や番長が食えた時代)
23〜27歳   ストリートブランド  セレクトショップ店長
28歳〜        工務店勤務 住宅不動産部リーダー(不動産や主に新築住宅の営業)



どん底も経験して、ストリートや旧体制的な組織に揉まれ、今では人並みの生活をするところまでは来た。会社に勤めて、安定した給料をもらい、家族と過ごす人生も幸せかもしれない。初めて家族が出来て、今までにない喜びも知った。

世の中の仕組み自体が少しずつ変わって来てる事は、函館という都心から離れた街にいても感じる。敷かれたレールから自分の足で一歩を踏み出さないとこのラットレースから抜け出せない。

遠回りをしてしてしまったが、止まっていた高校時代の針を進めよう。

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