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糸奇はな。2ndフルアルバム『VOID』(2020年1月)、プレスリリース

一昨日・昨日に続いて、今日も糸奇はなさんの作品について書いたプレスリリース用原稿を公開します。今日は、今年の1月10日にリリースされた2ndフルアルバム『VOID』のプレスリリース用原稿。もちろん各媒体関係者以外の方に読んでいただけるのは、これが初となります。

昨日、1stアルバム『PRAY』を久々に聴き返した感想として、僕は次のように書きました。

いま聴いて辛くなる音楽ではなく、まさに彼女も言っていたように「救われた気持ち」になる音楽。
なぜなら「ひとりであること」を嘆いていなくて、むしろ「ひとりであること」を立脚点として物事を見たり考えたりしている歌だから。「繋がる」大事さもわかったうえで、だけど表面上の安易な繋がりや共感性に頼ったりしない孤高の強さがあるから。どちらの作品にも根底にそれがあり、それは糸奇はなさんの表現に対する信念とも言えるものだと思うんです。
いろんなことが変わってしまったいまの世界に必要なことのひとつは、例えばきっとそういうことで、だから糸奇はなさんの音楽がなんだかとてもしっくりくる。
流行り歌っぽくなくて、引っ掛かりがあって、浮遊感があるようでいながら地に足のついた感覚があって。世の中の変化に惑わされたりしない揺るぎなさといったものがそこにあるんですね(それは『VOID』でさらに確固たるものになるわけですが)。

ここにも書いたように、『VOID』は糸奇はなさんの表現の「世の中の変化に惑わされたりしない揺るぎなさ」がさらに確固たるものになったという印象を受けたアルバムです。

その理由のひとつとして、そこに至るまでにリアルライブ(ツイキャスでの無観客ライブではなく、観客を前にしてのライブ)を4回重ねたことがあったと僕は思ってます。プレスリリース原稿にも書きましたが、リアルライブの経験によって「(自分の歌が)絶対誰かには届くんだ」という確信が持てるようになり、それが表現に対する勇気にも繋がっていると彼女は3度目のインタビューのときに話してました。そして、「誰かには届くんだという気持ちが持てたからこそ、よりよい作品にしなくてはならない。救いのなさすぎるものや痛々しすぎるものはよくないなと思うようにもなりました」とも。

歌詞はもちろん、音に対してこだわり抜いたのもそういう思いがあったからでしょう。それに何より僕は、ヴォーカル表現に幅が出て、『PRAY』のときよりも遥かに歌の豊かさが増した(あるいはエモーショナルになった)と感じたのですが、それもリアルライブの賜物だろうと、そう思ったものです。

インタビューで彼女はこんなふうにも言ってました。

「時間しか解決できない問題はたくさんあるし、世の中は理不尽なことだらけですけど、そういう行き場のない気持ちに寄り添えるアルバムになってたらいいなと思います。まさに今、虚無感に襲われて苦しんでいるひとは、音楽なんて聴いてる場合じゃないと思うけど、でもそこから一歩抜け出したときにこれが届けばいいなって」

今まさに世の中で起きているたいへんなことが収束に向かうにはまだまだ時間を要するでしょうけど、でも気持ち的にどん底から一歩でも抜け出したと思えたとき、このアルバムはすごく胸に迫ってくるものがあるはずです。

 糸奇はなが、2ndアルバム『VOID』を発表。
「虚無さえも認めて、寄り添えるアルバムであれたら」

 2018年8月7日に初のフルアルバム『PRAY』をリリース。そしてその約2ヵ月後には会場&通販限定のアルバム『SLEEP HOUSE』もリリースした糸奇はなが、新しいフルアルバム『VOID』を完成させた。

 この作品は、2019年10月10日に配信限定で発表した初のミニアルバム『VOID Ⅰ』と、12月10日に同じく配信限定で発表した2ndミニアルバム『VOID Ⅱ』を合わせたもの。『VOID Ⅰ』と『VOID Ⅱ』、それぞれ6曲でひとつの世界観が構築されていたわけだが、その2作品を曲順もそのままに合わせた『VOID』は、それぞれの特性を1ミリも損なうことなく、むしろ新たな物語性を身につけてここに存在している。12曲続けて聴くことで初めて見えてくるものが確かにある。糸奇はなの伝えんとすることがより明確かつ巨大な像をなし、胸に迫ってくる。“引きずり込まれる”という言い方をしてもいい。

 VOID。空っぽ、虚無、欠損、無効といった意味だが、糸奇はその概念についてこれまでずっと考えてきた。向き合ってもきた。「心はどこにあるの?」。「“ほんとう”って何?」。常に頭と心を支配していたその概念を、あるときから曲や絵にするようになった。そうせずにはいられなかったし、それをすることでどうにか立っていられたところもあっただろう。答えは見つかっていない。この先も答えがでることなんてないのかもしれない。が、それでも向き合わざるを得ない。考えずにいることなんてできない。答えはでなくとも、気づきはある。「いまはこう思う」。「こうなんじゃないか?」。問いかけも含め、間違いなくそれは“いま”感じていることであり、だから音楽という表現物にもなる。だから聴く者の心を揺さぶるのだ。糸奇は言う。

 「どうしてひとは、いつか死ぬとわかっていながら生きているのか。そういうことをよく考えていて。気持ちは絶対に変わるものだし、ひとは死ぬものだし、モノは壊れるものだし、あるものはいつか失われる。だったら……って虚無になるのはある意味で自然というか、否定できない気持ちだと思うんです。ただ、“何もない”という状態は、裏を返せば“何かあると勝手に信じ込むこともできる”状態なわけで。だから“何もない”ことを必ずしも否定的に捉えなくてもいいんじゃないか、という気持ちもあって」

 「世の中は前向きなものがやっぱり肯定される。前向きに進まなくちゃダメだというような考えが当たり前のものとしてある。でも、前向きになれないひとは捻くれるしかないのか、自己嫌悪に陥るしかないのか、別にそんな必要はないんじゃないかって思いが自分にはあって。いまは何もできない、したくない、っていう気持ちも認めてあげたい。それでもいいんだよって受け入れて、許してあげたい。そういう気持ちに寄り添えるアルバムであれたら嬉しいですね」

 「今回、歌詞を書いてから気づいたことがあって。例えば“悪魔とおどる”で、“いま 抱きしめておくれよ、”と書いている。“きみがいた”では、“ああ、いま、それでも 愛さずにいられない きみが、たった、ひとりの きみ が、いた。”と書いている。大事なところで“いま”って言葉を使っているんですね。それはきっと、こんなにも虚無だけど、それでも“いまの気持ちがほんとうなんだよ”“いましかないんだよ”ってことを自分は言いたいんだなって思って。“いつか”じゃなくて、“いま”。“永遠”かどうかなんてわからないけど、“いまそうしたいんだ”という気持ちを大事にしたい。そこまでを含めての“VOID”というテーマなんだなって、自分であとで思ったんです」

 かつて糸奇は、「自分はこの世界の仲間外れ。誰にも見えない、気づいてもらえない、存在してないのと同じような人間だ。いっそ消えてしまいたい」という思いを抱いていたと言う。「いまもそういう気持ちがなくなったわけではない」とも。だが、表現をするようになり、音源を発表するようになり、何より観客を前にして歌う「リアルライブ」をこれまでに4回行なったことによって、心の内で何かが確かに変化した。4回目のリアルライブの数日後、糸奇は自身のブログにこう綴った。

 「ライブのたびに奇跡のような不思議な気持ちになります。自分のために来てくださって、とてもうれしい。自分も、みなさまも、本当に存在するんだ、と…。何年も前の過去の自分に教えてあげたくなる。でもその自分は信じないでしょう。彼女はまだ心のなかのどこかに、ずっといじけて拗ねたまま存在している。でもそんな意思疎通できなくなった彼女がいるから、自分は創作や表現をしよう、と思い続けることができるような気もしています」

 曲を書き始めた頃はまだ、それを聴くひとがいることをイメージできずにいた。だが、いまは「絶対誰かには届くんだ」という確信が持てるようになり、それは表現に対する勇気にも繋がっていると言う。だから今作『VOID』では、殻を破って、初めてのフルアルバム『PRAY』で言えなかったことを言い、できなかったことをした。サウンドに関しては、「この音は本当に必要なのかどうかと」時間をかけて吟味し、極力シンプルな音構成を意識しながら、必要な装飾音を足すなどしていったそうだ。「自力のミックスに拘って、音の響かせ方、音の出るタイミングなんかも前より繊細に考えるようになりました」。

 歌詞は曖昧さが薄れ、曲ごとに振り切った表現の仕方をするようになったと筆者は感じたのだが、それはこの1~2年で読んだ本(フョードル・ドストエフスキーの長編『カラマーゾフの兄弟』など)からの影響が大きいそうだ。

 そして、それに伴い歌唱表現の強度も増した。「以前は自分の感情を出しすぎるのはよくない、表情豊かに歌うのは自分に酔っているみたいで恥ずかしいという気持ちが強かったんです。でもいまは、この曲ではこういう自分の面を押し出そう、というのが強くなった。少し演技するくらいに上乗せした自分を出せるようになったというか」。1曲1曲の個性と強度が際だって感じられるのは、そのためだ。

1.「悪魔とおどる」
 『PRAY』の1曲目「きみでないのなら」、『SLEEP HOUSE』の1曲目「ちいさないのり」がそうだったように、今作『VOID』も前奏なしの歌で始まる。19年3月から形にしだしたというこの曲は、11月10日に渋谷・Galaxy銀河系で行なわれた4回目のリアルライブのオープナーでもあった。18年にフョードル・ドストエフスキーの長編小説『カラマーゾフの兄弟』を読み、そのなかに出てくる「悪魔」という象徴について考えながら歌詞を書いていったそうだ。8分の6拍子で進む旋律は、“悪魔のゆりかご”のイメージ。「音も悪魔っぽさを意識してピアノの低音に邪悪さを込め、バイオリン部分は悪魔が笑う感じで打ち込みました」。主人公の“ぼく”は悪魔を恐れているのではなく、むしろ「ぼくはあなたのものだ」と我が身を差し出す。「苦しんでいるときに、手を差し伸べられて無理やり引き上げられるよりも、一緒に溺れてくれるほうが慰めになる場合もある。だから“ぼく”は悪魔を共犯者のように思っているんです」。最後、「みちづれを しずかに さがしている…」と息絶えるように歌われるのが印象的。

2.「偶像」
 朝起きたら、このサビのメロディが頭のなかで鳴っていたそうだ。歌詞は、これも『カラマーゾフの兄弟』の影響から書かれたという。「どんなに酷くて救いのない世界でも、どんなに否定され続けていようとも、たったひとつの真実があれば強くなれるし、なんでもできる。ただ、そう信じたいけれども、そのたったひとつの真実だと思えるひとは自分の思い込みが作り上げた偶像なのかもしれない。そういう意味では“スーパー独りよがりソング”ですけど、パワフルで前向きな曲だと自分では思ってます」。世界で活躍するハウス/テクノDJのSUGIURUMNがアレンジを手掛け、哀しさよりも昂揚感の勝る曲に仕上がった。偶像であるにせよ、自分が信じられたら、それは“ほんとう”になる。そのことの確信がヴォーカルにも表れている。

3.「かそう」
 2019年3月10日に原宿・VACANTで行なわれた3回目のリアルライブで初披露され、ファンから熱い支持を得た1曲だ。メロディアスで、ドラマチック。静けさを湛えたAメロからBメロへと展開した後、サビにきて「火が轟轟と燃える」…そんなイメージで書いたと言う。歌われているのは、「自分に対する不信や諦め。ダメだったけどそんなことは初めからわかっていたというような自嘲。そしてそれを燃やすことによる解放」。アレンジは「心がどくどくしている」様子を表わすべく、躍動感を意識したものに。「火葬することによって生まれ変われるんじゃないかという願いのようなものも込めています」。尚、タイトルを「かそう」とヒラガナにしたのは、“火葬”のほかに“花葬”“仮想”といった意味も込めたかったからだが、ファンから“歌葬”の意もあるんじゃないかというコメントがきたそうで、その解釈も気に入っているとのこと。

4.「灰色の幻想」
 2017年の後半にピアノで作った曲。当初はインストゥルメンタルとして作り、そのバージョンをウェブサイトにアップしていたが、物語が浮かんできたので歌詞をつけて完成させたそうだ。「この歌の主人公は湖の底で人魚に救われたことがあるんですが、たった一度だけのことなので夢だったんじゃないかと思っている。だけど、それでも信じたいという気持ちを歌にしていて。そういう意味では“偶像”のテーマに近いところがありますね」。全編でメロトロンを使い、ミュージカルの劇中歌のようなイメージでアレンジした。シンプルな音構成だが、パーカッションやフルートの音が非常に効果的に鳴っている。

5. 「きみのいちばんになれないのなら」
 4年以上前に作られた曲で、その当時のバージョンはウェブサイトにアップされ、ファンから高い人気を得ていた。「あの頃はまだ地声で歌うことに慣れてなかったんです。それで、どうしても納得のいく形でちゃんと残したいという気持ちがあって。“ねえ どうして、きみは そうじゃないの”となじる感じもあるけど、それよりも不安とか心細さといった繊細さが大事だと思ったので、ある程度冷静な歌い方を意識しました」。活動初期の曲であるため、歌詞も衝動的でストレート。それ故、10代~20代前半の女の子たちの共感を強く得そうだ。新録にあたってシンセによるオルゴール音やフルートが足され、また生ドラムであることも手伝って立体感が増した。因みに初期曲でありながら、ライブで歌ったのは19年11月の4thリアルライブが初めて。「ずっとライブで歌いたかったので、嬉しかったです」

6.「わすれられぬ歌」
 「歌うのを楽しいと思うときは少なくて、それよりも私は歌わないと苦しいから歌う。歌以外に表現の手段がなくて辿り着いたのが歌だと思っているんです。だけど、楽しいときとか気分のいいときにふと歌いたくなるようなものもいいなぁと、このときは思って。雨の中で鼻歌を歌いたくなる気持ちを歌にしようと」。つまりは糸奇はな流「singin' in the rain~雨に唄えば~」といったところで、雨の音も効果的。始まりは無機的なサウンドだが、歌唱と共に徐々に感情がこもっていくような構成もいい。“からっぽ”“抜け殻”(=VOID)がアルバム全体に通底するテーマではあるが、そのうえで「うたおう、うたおう、ぼくがいることを」と(ちっぽけな孤独を抱きしめて)歌われるこの曲は、だから感動的でもある。

7.「PRAY」
 2015年からあった曲だが、歌詞もテーマもタイトルも変えてこの形に。「現実に起きていることなのに、それが物語であるように感じてしまうことって誰でもあると思うんです。あと、みんなが真剣なのに自分の感情だけがそこにない気がしたり。そして、そこにいる自分をあざ笑うような自分がいることに気づいたりして……」。そんな心苦しさ、あるいはある意味の残酷さが歌になっている。電子音と生ドラムの融合、予想外なメロディ展開によって、現実と物語の境界線がますます無きものになるようだ。曲の後半でモールス信号の音が入るが、これはオスカー・ワイルドの長編小説『ドリアン・グレイの肖像』の文中に出てきたハムレットの言葉(=「悲しみは召され、心と体は別物」)を打ったもの。

8.「COLD GHOST」
 およそ3年前に書かれた曲。よって、「きみのいちばんになれないのなら」同様、歌詞がかなりストレートで強いインパクトを持つ。何が“ほんとう”なのか。どうすれば想いを見せられるのか。認識してもらえないのなら存在しないことと同じではないのか。恐らく誰もが一度は抱いたことがあるだろうそうした問いかけと訴えを切迫した状態でありながらも正面からズバっと歌にしているので、心に突き刺さる。ドラムンベースの疾走感も心情にピッタリで、歌唱も生々しい。編曲をボカロPのゆうゆが担当した。「尊敬するゆうゆさんが自分の世界を広げてくださったこともあり、ひとりよがりではなく大きな意味を持つ歌になったと思います」。

9.「shut down」
高校3年の頃にピアノで弾いていたメロディであり、歌詞の一部は10年くらい前からあったそう。そのダークすぎた部分などを改変してこの形に。「思春期にイマジナリーフレンド……自分だけの空想の友達を持つ子は少なくないと思うんですが、自分にもいました。自分が信じれば存在するし、信じなければその子は消えてしまう。この歌の“きみ”はそういう存在で」。パイプオルガン、ストリングス、(メロトロン音源による)シンセコーラスが多層的に重なっていくあたりがドラマチックで、糸奇の歌は祈りのようだ。

10.「スリーマンス」
 「三か月 食べ続けたもので 人間は できている」。昔CMで見た健康食品だかなんだかのコピーがモチーフになってできた曲だそうで、上京したての頃に豆腐ばかり食べていたため、「ぼくは今、豆腐のように崩れてる」というフレーズが生まれたのだとか。非常にユニークな歌詞で、「アルバムのなかでこれだけ浮いている」と糸奇も言うが、「認識されないなら存在したくない、ただの記号になりたい」といった思いはほかの曲と通じている。サウンドも「シリアスなのかシュールなのかどっちなんだ?! というラインを狙いました」。

11.「きみがいた」
 世界観の大きなこの曲は、2年ほど前にできていたメロディに最近歌詞をつけたものだそう。「月を見て美しいと思ったり、星を見て優しいと思ったり。そういうふうに感じる瞬間って大事だなと思うんです。“ああ、自分には何かを見て動く心がまだあるんだ”ってわかるから。キレイなものを見て、ひとは泣いたりするじゃないですか。それはなぜなのかって考えると、いつかはこんなにキレイじゃなくなることを想像して泣くのかもしれないし、自分の醜さとの対比で泣くのかもしれないし、あるいはそれをキレイだと感じられる自分に酔っているだけなのかもしれない。でも、なんにしても“感じることができる”のは大事だなって思って。なぜならそれは虚無(=VOID)の逆だから。からっぽだと思う時期があるからこそ、“感じる心”を確認することができるというか」。最後に歌われる、たったひとつの確かな思い。音楽的にもそこでピークが訪れる。因みに始まりの音は「心臓の鼓動」を表現したもの。間奏部分では「PLAY」に入れたガラスの砕け散る音を逆再生し、砕けたガラスがシュッと元に戻るイメージが表現されている。

12.「heartless」
「きみがいた」で「たった、ひとりの きみ が、いた」とある種の救いが提示されたわけだがしかし、そこで終わらずアルバムは「heartless」と題されたこの曲の「きみ さえ、信じてくれた、なら…」という投げかけで終わる。この曲を最後に置くことは初めから決めていたのだと言う。「やっぱりこれが一番言いたいことで。譬え自分の存在を認められても、好きなひとに愛されたとしても、繕った自分を本当の自分だと思われていたとしたらそれは恐怖だし。本当の自分を見せたときに幻滅されないかって考えると、怖くてたまらなくなる。だったらずっと幻を抱いていてほしいなって」。“おしえてよ。どこに心はあるの?”。この問いこそがこのアルバム『VOID』のテーマと言ってもいいだろう。だが、問いかけ、投げかけであると同時に、「きみ さえ、信じてくれた、なら…」は強烈な希求、あるいはギリギリの願いにもとれる。そのときの歌われ方、聴き方によって、響きが変わる気がするし、ライブで歌われる度にきっと曲自体が育っていくんじゃないかと、そう思う。

(文・内本順一)








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