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追悼/ 鮎川誠。サンハウス interview:「この5人のメンバーは本当に奇跡の集合体やったよね、今思えば」(鮎川)

鮎川誠さんが膵臓がんのため1月29日に亡くなった。

かつてよく鮎川さんの取材をふってくれたエンタメ情報ウェブサイトの編集・福嶋氏から依頼があって追悼文みたいなものを書いた。まだまだ書きたいことがいっぱいあったが、3分前後のシンプルな曲のなかにロックの旨味を凝縮して聴かせていた鮎川さんを見習い、長くなりずきないよう心掛けて書いた。

シーナ&ロケッツが結成35年目を迎えた2014年に行なった鮎川さんのインタビューも、noteに掲載した。シーナ&ロケッツがどのように始まり、どのように転がっていったのかを丁寧に話してくださったインタビューで、改めて多くの人に読んでもらえて(シーナ&ロケッツの歴史の一部を知ってもらえて)よかった。

でも、鮎川さんにはもうひとつ重要なバンドがある。サンハウスだ。

サンハウスは1970年に福岡で結成され、75年にアルバム『有頂天』でメジャーデビュー。日本のブルーズロックバンドのなかでも異彩を放つ強烈な存在感と音楽性で不良ロック好きを喜ばせたが、78年3月に解散。1983年には再結成して日比谷野音ほかでライブを行ない、ライブ盤『CRAZY DIAMONDS〜ABSOLUTELY LIVE』も発表した。その後、1998年、2010年、2015年にも再結集。レコードデビュー40周年の2015年には
ライブレパートリー全26曲のリハーサルテープをCD化した『HAKATA』もリリースされた。

鮎川さんと言えばまずシーナ&ロケッツだが、サンハウスも鮎川さんの人生において極めて重要かつ大切なバンド。なので、シーナ&ロケッツのことだけでなく、サンハウスがどのように始まったのかも知ってもらいたい。そう思ったので、ここにサンハウスが3度目の再結成をした2010年(サンハウスのデビュー35周年となった年だ)の鮎川さんと柴山さんのインタビューを再掲載することにした。

2010年はレコードデビュー35周年を記念したボックスセット『SONHOUSE THE CLASSICS~35 th anniversary~』が発売され、全国5箇所を回るツアーを敢行。フジロックにも出演した。下は、5月9日のリキッドルームを観てブログに書いた感想だ(読み返すと文体がちょっと恥ずかしいけど)。

因みにボックスセット『SONHOUSE THE CLASSICS~35 th anniversary~』はしばらく入手困難な状態にあったが、このタイミングで100セット限定で復刻販売されることが決まった。買い逃していた方はぜひこのタイミングで入手してほしい。

さて、インタビューは2010年3月に行ない、今はもうない「musicshelf」という音楽情報ウェブサイトに2回に分けて掲載されたもの。柴山さんと鮎川さんおふたり揃ってのインタビューは、柴山さんが「菊 feat.鮎川誠 シーナ&ロケッツ」名義で(鮎川さんのプロデュースで)2016年にソロアルバム『ROCK’N’ROLL MUSE』をリリースされたときにも行なったが、2010年のときは初めておふたりを前にしたのでけっこう緊張したのを覚えている。が、読み返してもハッとなるようなことをおふたりは話していて、貴重なインタビューだったなと、今またそう思い返しているところだ。

<特集 サンハウス スペシャルインタビュー>
musicshelf  2010年4月掲載

毒があって、ぶっとくて、引き締まっていて、妖しくて。「夜、口笛を吹くと、サンハウスに噛まれる」なんて言われていたのも頷ける、そんなバンドがサンハウスである。1970年に福岡で結成され、エレクトリック・ブルース・ロックのサウンドに日本語の歌詞を乗っけたオリジナルな音楽性をもってひとつの時代を駆けた5人組。1978年に解散するも、ジャパニーズ・ビート・ロックの祖として長く評価され続け、1983年、1998年に次いで、今また動きだしたところだ。

レコード・デビュー35周年を記念して、2月にまず豪華ボックスセット『SONHOUSE THE CLASSICS~35 th anniversary~』が発売されたが、5月9日からは柴山俊之(vo)、鮎川誠(g)、篠山哲雄(g)、坂田“鬼平”紳一(ds)、奈良敏博(b)というオリジナル・レコーディング・メンバーでツアーを開始。既にSOLD OUTとなった会場もいくつかあるようだ。というわけで、ヴォーカルの柴山俊之氏とギターの鮎川誠氏に、ツアーへの意気込みだけでなく、結成当時のエピソードなどもうかがった。貴重な話、盛りだくさん。新旧ロック・ファン、必読である。

取材・文●内本順一

「ほかのバンドとの違いをハッキリさせることでオレたちは生き延びてきたけんね」(鮎川)


――サンハウスが再結成するのは1983年、1998年に続いて3回目ですが、今回のようにツアーという形で大きく動くのは初めてですよね。それだけにおふたりの意気込みも大きいのでは?

柴山俊之: まあでも、背伸びして”あれもしたいこれもしたい”とか考えてもねぇ。レコーディングしたオリジナル・メンバーが集まってやるから、上手いとか下手とかじゃなく、その曲の一番いいところが自然に出てくるんじゃないかなと思ってるんですよ。だから、あるものをストレートにやろうっていうだけで。あんまり構えてはいないですね。

――2010年型のサンハウスを見せつける!  みたいな感じではなく。

柴山: うん。昔の「クレイジー・ダイアモンズ」(*1983年に日比谷野外音楽堂で行なわれた再結成ライブ)のときは多少プレッシャーみたいなのもあったんですけど、今回はそういうのもないですね。

――83年の日比谷野音は僕も観に行って、鳥肌が立ちました。

柴山: あ、ホント?  でもあの頃はなんかサンハウスのイメージが誤解して受け止められてるところもあってね。暴力的だとかさ。だからそれに対するプレッシャーみたいなのがあったりしたんだけど。

――昨年、頭脳警察が再始動した際に、パンタさんとトシさんに話をうかがったんですけど、頭脳警察もかつては学生運動とか赤軍とか、そうした社会的なうねりのなかで反体制の象徴みたいになってしまって、それはある種、重荷だったと言っていたんですね。で、最初の再結成のときもそれなりに気負いがあったけど、今はもうそういうのがなくなって、純粋にロックを楽しめるようになったと話されていたんです。サンハウスの場合はどうですか?

柴山: オレたちはあんな政治的な歌はうたわんけんね。昔からただのポップなロックンロールをやってるバンドだから、時代によってどうこうっていうのはなかった。まあ生き方とか考え方は確かにあの時代特有のものがあったかもしれんけど、でも学生運動に呑みこまれるような歌でもないしね。政治的な歌とかは基本的に避けて……いや避けてたわけでもないけど、そもそもそういうことは頭んなかになかったから。福岡大学ってとこに行ってたんだけど、学生運動してる人、あんまりいなかったけんね。オレもダンスホール行って演奏して、好きなことやってるタイプの人間だったから。そういう学生運動的なことには関わらなかったわけで、それはまあ、今となってはよかったと思いますよ。だって、そういうの背負ってうたっていくの、辛いじゃない?  いや、パンタは好きだよ。パンタの歌詞は凄いなって思うけど、大変な重荷やったやろなとは思うよね。オレたちは思想的なものがなかったから、そういう重荷はないですよ。

――じゃあもう一貫して楽しもうと。

柴山:  そうですね。サンハウスの曲が、なんか知らんけど、好きなもんでねぇ。オレがね。マコちゃんもそうだけど。好きだから別のバンドでサンハウスの曲をやっても楽しいけんさ。そりゃあ、オリジナル・メンバーでやりゃあ、どんだけ楽しいかわかるじゃないですか。だから、ボックスが出たからそれに関連してどうのこうのっていうよりも、オリジナル・メンバーがみんな生きてて、みんなで一緒にやるってことが、すごくワクワクする。待ち遠しいしさ。不安もちょっとはあるけど、それも含めて楽しいんですよ。

――今のいろんなバンド、若いバンドに対して、目に物見せてやるっていうような気持ちはあったりしますか?

柴山: ないね。いや、ないこともないけど。

鮎川誠: ないっちゅえばないし、あるっちゅえばそれだけのためにやってきたところもある。ほかのバンドとの違いをハッキリさせることでオレたちは生き延びてきたけんね。シーナ&ロケッツにしても柴山さんのジライヤにしても、そういうのはみんなそれなりにあろうけど。一緒にされてたまるか、ちゅうね。

柴山: 確かにそうだね。

鮎川: なんでもロックち言やあロックかっていう。ロックち言うけどロックが違うんじゃないの?って感じることはよくありますね。

――ああ、そうですよね。

鮎川: まあ、オレたちは好きなもんを好きと思ってしよるだけで。ストーンズが好きとかグレイトフル・デッドが好きとかジョン・リー・フッカーのサウンドがしびれるとか、そういうのを聴くだけでも最高なのに、自分たちの音でそういうイマジネーションの世界を伝えられるちゅうのは、それこそバンドの喜びでさ。そのなかに自分たちがおれる喜び。それだけですよ。それとあと、「キングスネークブルース」やって「爆弾」やって「地獄へドライブ」やって、っていうことの喜び。独り歩きしてくれるぐらいに頼もしい曲がたくさんあるバンドってことがもう嬉しかったりしますね。「ぬすっと」もやりたいし、あれもこれもやりたいけど、時間内でできんかなとか、嬉しい悩みが今から出てきてて。

――やりたい曲だらけですよね。僕も聴きたい曲だらけですし。

鮎川: うん。それやし、箱に入るような形で自分たちのレコードが出ること自体、30数年前だったら夢みたいな話でね。ホント、夢みたいですよ。福岡におって「負けてたまるか」「負けとらん、勝っとる」とか思いながら、日々楽しくやっとったあの頃があって、デビューもして、もっと凄いものをって目指してやってきて、アルバムも3枚出して。それを今の若い人たちが知っててくれたり、名前挙げてくれたりして、今度は8枚組の箱を出してもらえるんやから。(オリジナルアルバムは)3枚しか出してないのに(笑) 、いろいろ音源探してまとめてくれて。ありがたいことですよね。だから、そんなかの曲たちを演奏できる喜びが自然に僕たちのプレイをいざなうと思うんですけど。でも、やるからには観に来てくれる人たちをノックアウトしたいよね。

柴山: そうだね。それに、あの頃はこんな歳になって、またやってるなんて考えてもみなかったんでね。もう30年以上前のバンドなわけですから。60を超えてまだやってる自分なんか想像してなかったからねぇ。凄いなと思いますよ。珍しいんじゃない?   凄かったって言われるバンドっていろいろあるけど、自分なりに比較してみても、正直言ってほかを遥かに超えてると思うから。自画自賛するわけじゃないけどさ。そういうのを何も先のこと考えないで出来たっていうのも凄いことだと思うし。ま、そういうものなんでしょうね、きっと。今から10年先のことを考えて凄い曲作ろうと思っても、できないもんね。

――『シャイン・ア・ライト』のなかでモノクロ・フィルムのミック・ジャガーも、あと何年やるかというようなことを訊かれて、来年ぐらいまでとかなんとか言ってましたもんね。こんなに続けてるなんて、あの頃は思ってもみなかったでしょうし。

柴山: そうだね。オレも18の頃には「27になったら死ぬ」とか言ってたし。ジム・モリソンもそうやったし、そういう人が3人くらいおったからさ。オレも27くらいで死ぬかと思ってたんだけど、27になったらそんなこと何も考えなくなってたけん(笑)

「それまでまったく聴いたことのないようなスタイルのギターをマコちゃんが弾いてて、”わっ、凄いなこの人”って思って」(柴山)

――ではここから時代を遡って、結成当初の話をうかがいたいんですが。まず、そもそもおふたりはどのように知り合われたんですか?

柴山: オレはサンハウスをやる前にキースっていうバンドをしよって。で、マコちゃんのことは、始めはバンドやってるって知らなかったけど、街でときどき見かけるカッコイイ人っていう感じでね。オレはブライアン・ジョーンズみたいなフワフワな服着て、個性的なカッコで街を歩いてたわけですよ。天神っていう狭い地域にいると、どうしても自分が一番カッコイイって思いたくなったりするわけで。ところがマコちゃんを見て、”ああ、オレよりカッコイイのがいるんだ”って思って、やきもちのような、憧れのような気持ちがあってさ。それで気になっていたわけです。それからあるきっかけで、ギターを弾いているところを見てね、人の家でなんだけど。オレはそれまで、キースのギターで笠原ってやつがいて、そいつが一番上手いと思ってた。そしたらそれまでまったく聴いたことのないようなスタイルのギターをマコちゃんが弾いてて、”わっ、凄いなこの人”って思って。

――それはいくつぐらいのときですか?

柴山: 22くらいかなぁ。

鮎川: 1970年ですね。で、僕は僕で、柴山さんを見て、”あ、バスに乗ってたあの人だ!”って。柴山さんのおったキースは、もうテレビで見とったロックスターやったの。朝、「ヤング720」ちゅう番組を見んと学校に行きたくなくてね。“今日のバンド”が必ず1組出るんですよ。テンプターズとかビーバーズとか、毎日。そこである日、キースっちゅうバンドで柴山さんがスペンサー・デイヴィス・グループの「アイム・ア・マン」を歌っていて、”あ、バスで遭ったあの人だ”ってなって。それと、アタックっちゅうプロのバンドがあって、それは篠山(哲雄)さんがやってたバンドですけど、それを観に「赤と黒」ちゅうダンスホールに行ったらまだシャッターが閉まってて、それで横のダンスホールに行ってみたら、柴山さんたちがそこでやりよって、ウィルソン・ピケットの「イン・ザ・ミッドナイト・アワー」をちょっとクリームふうにやるとかしとった。でもそのときはまだ挨拶してなかったね。柴山さんって名前も知らんやったかもしれん。で、それから僕は篠山さんに「入りぃ」ち言われて、アタックに入って一緒にやりだして。で、70年の九大(九州大学)の北海道実習後に初めて東京に行ったんですけど、篠山さんに「オレの友達でシバチンいうヴォーカルがおるけ、電話してみようか」って言われて、「なんか来るみたいよ」ってなって、で、来たら、あの柴山さんで。そんときに初めていろいろ話しよったんよね。

――どんな話をしたんですか?

鮎川: その頃、僕は「アイム・ア・マン」がしたくてたまらんかったけん、そんな話をしたり。どうしてかって言ったら、『BLOW-UP』ちゅう映画を観て、動くジミー・ペイジやジェフ・ベックを初めて観てすぐのときやったんよ。あの映画のムードが頭んなかいっぱいに広がってて、「ああいうの一緒にできたら最高やね」っていうふうにオレなりに伝えた感じ。それで「機会があれば一緒にやろう」って話になって。

柴山: オレは最初、マコちゃんがそこにおるとは知らなかったんですよ。オレはもう大学卒業したら家のあとを継がないかんしってことで、運転免許を取りに行ったりしてたから、バンドの誘いは断ろうと思っててね。でも電話じゃ失礼だから、ちゃんと会って断ろうと思ったんです。で、行ったら、そういう話になって、ああ、この人と一緒やったらやろうかなって思っちゃって。親にはもうバンドやめるって言ってたから、帰りに”どう言おうかな”って考えてね。”またバンド始めるって言ったら怒られるだろうなぁ”って(笑)

――まさに運命の日ですね。もしもその日、そこで鮎川さんに遭わなかったら……。

柴山: 音楽はしてなかったかもしれんね。してても別に深く掘り下げたりはしてなかったんじゃない?  何年か経って「おやじバンド」みたいなのに出てたかもしれない(笑)  そう考えると、やっぱり出会いですよね。

――「こういうバンドをやろう」というビジョンは、サンハウスを一緒に始めると同時に出てきたわけですか?

柴山:「ブルースをやろう」っていうね。でもオレはそんなにブルースを知らなかったんですよ。ポール・バターフィールドとか、ジョン・メイオールとかさ、あとテン・イヤーズ・アフターとか、それぐらいのレベルのしか知らなかったのね。そういうブルースがカッコイイと思い込んでいたから。で、「ブルースをやろう」ってことになって、いろいろ聴きながら「それ、誰?」って教えてもらったりして、それで初めてマディ・ウォーターズの「ローリング・ストーン」を聴いたわけなんだけど、あのときはショックやったけん、オレ。ものすごいショックで。それまでウィンウッドとかエリック・バートンとか聴いてても、カッコイイとは思ったけど、ショックではなかったんです。オーティス・レディングにしてもウィルソン・ピケットにしてもジェイムス・ブラウン聴いたときにしても、凄いとは思ったけどショックというほどではなかった。でもマディ・ウォーターズは本当にショックでね。ブルースとか言う前にものすごくロックな感じがして。だから一生懸命聴いて、歌い方まで全部覚えた。手抜きもせずにきちんと覚えましたよ。バカみたいにオレ、そこにグ~っと入り込んじゃったんです。あんなもんに入り込んだら、ろくなことにならないと普通は思うんだろうけど、どんどん入り込んじゃったんだよね。なんかこう、自分の生きてるタイム感みたいなものとその音楽がピッタリ合って離れなくなっちゃったのかもしれない。

――鮎川さんは先にマディなんかを聴き込んでいたわけですか?

鮎川: いやいや、例えば「アイ・ジャスト・ウォント・トゥ・メイク・ラブ・トゥ・ユゥ」やったら、先にストーンズので聴いとって、マディのはあとで聴くわけですよ。で、”ああ、これがそうか!”ってなって、お互いに情報を交換しあったりして。共有のビジョンってやつですよね。この曲があの曲の原曲というような情報を、お互いに持ってきて一緒に聴いたりして。これはよく言ってることですけど、今の人たちの”どれを聴いたらいいですか?”ちゅうような発想とはまず違う。「今日、ヤマハにドカっと輸入盤入ってきよったよ」ちゅうて、お店の人が箱を開けるのを柴山さんがこうやってじっと見よって、「あ、ブルースが入ってきた!」ちゅうて、とりあえず誰かに買われんうちにキープするっていう。ロバート・ジョンソンなんかもそうやって入ってきたんですよ。だから僕らはカラカラのスポンジと同じでね。水を吸い込みたくてたまらん感じなわけです。キース・リチャーズもエリック・クラプトンもスティーヴ・ウィンウッドも、彼らはそういう元のブルースを知っててやりようのに、オレたちはそういうのを聴く術がなかったから。そういうところでみんなスポンジのように吸収しようとしてたし、5人が5人とも同じビジョンを持つことができた。それはバンドでいっちゃん大事なことで。結果としてそうだったってことで、「持とう!」ち言って持てるものでもないと思う。

――確かにそうですね。

鮎川: あと、ちょうどウッドストックの映画なりレコードなりで新しいロックが爆発的な感じになって、ジミヘンは国歌をやるわ、キャンド・ヒートは「ゴーイング・アップ・ザ・カントリー」をやるわみたいな。ああいうブルースを土台にしたロックがシンプルに広がりよるのを観て、博多にはまだないものが世界には現実としてあるっちゅうことを知った。それでまた新しい共有のビジョンを持てたってところもありますね。5人それぞれの考えてることがもしもバラバラやったら、それで終わりになってたかもしらんけど、オレたちは同じビジョンを持てていたし、柴山さんはよそのバンドに差をつける方法やアイデアを持っとったからね。

柴山: 最初からちょっと反逆的な要素を持ってたのかもしれない。アタックもそうだったけど、博多にはそういうバンドがふたつかみっつあって。あとはただ流行ってる音楽をやってるだけのバンドがたくさんあったわけだけど、まあそういうのがいたからオレたちも生きれたっていうかさ。こういうバンドはもうあるんだから、オレたちはこういうふうにやってやるっていう。そういうところはあったよね。

「捧げてるなんて気持ちもなかった。好きやけ、没頭しとっただけで」(鮎川)

――で、始めた当時はブルースをやっていたわけですけど、オリジナル曲はどれくらいから始めたんですか?

鮎川: 2年目くらいから。

柴山: ブルースを歌うことに行き詰まっちゃってさ。もうできないって思っちゃって。

――やるだけやった感じだったんですか?

柴山: いや、やるだけやったって感じではないです。答えは最初から出てると思ってやってたというか。例えばエルモア・ジェイムスの「ダスト・マイ・ブルーム」を歌ってても、3回目か4回目になるともうエルモア・ジェイムスはどっか行っちゃって、ただ単にオレが歌ってるだけの状態になって。ほかのも全部同じような感じになってっちゃう。当時は自分でそれが許せなくてね。けっこう辛かったかなぁ。それで、オリジナルはしたことなかったんで、やってみようと。もしそれもダメだったら潔くやめようっていう話で、オリジナルをするようになった。

――それまでにも歌詞は書かれてたことがあったんですか?

柴山: いや、基本的には初めて。いつくか書いてみたけど、どうもうまくいかないんで、どうしようかと思ってヤマハに行ってね。はっぴいえんどとかフォークの人のレコードとかが出てたから、その歌詞を全部コピーしてもらってさ。それを家で見てて、この人たちと一緒のこと書いても目立たんやろし、それこそ反逆的な気持ちじゃないけど、嫌われるか好かれるかのどっちかでいいやって思って。真ん中だけは避けようと思って、ない頭をひねってね。で、ブルースみたいにダブル・ミーニングっぽくして、ちょっとセクシーに作ったらどうなのかなって書いてみて。それでブルースっぽいのができたわけだけど、最初はホント、自分でもアホじゃないかと思うくらい恥ずかしかったね。マコちゃんに見せるのも本当に恥ずかしかった(笑)。

鮎川:「俺のカラダは黒くて長い」っていう。それが後の「キングスネークブルース」になるんやけど。僕はそれ見て、”おおっ!”って思った。

柴山: 恥ずかしかったんだけど、渡したら曲を作ってきてくれて、それがなんか、いいなぁと。それで自信がついたっていうかな。これでいいのかもしれないって思えたんだよね。ちょっとした階段を1コ登ったぐらいの感じなんだけど、これでいいんだって思えたことがものすごく自分にとって救いやった。マコちゃんがその詞を見て「こんなんじゃ作れない」って言ってたら、それで終わってチューリップみたいな方向に走ってたかもしれないね。

――それが、サンハウスがオリジナルを始めたきっかけになった。

鮎川: あと、その前に72年に広島で「ストロベリー・ジャム」ちゅうイベントがあって、どういうわけかそれに呼ばれて。オレたちはまだブルースで勝負してたんですよ。で、「ローリング・ストーン」を柴山さんが歌いだして、ウケて、「よいしょー」とかなんとか言ったら、お客さんがそれに返してきたんです。「よいしょー」「よいしょー」みたいな、そういうニュアンスの日本語のコール&レスポンスが自然に生まれて。それが予兆やった気がする。その頃やね、ブルースから飛び出すのは。で、(72年)5月3日に「昭和元禄、夢でよかった、ええじゃないか」っていうイベントがあって、加川良とか高田渡とか泉谷しげるといったフォークの人たちと共演して、そのときにフォークの人たちのロック魂を見た気がしたけん。特に加川良さんもそうやけど、高田渡さんがやりよるのはもう完全にあの人のオリジナルのブルースで。そういうので日本語に対する憧れが僕らも膨らんでいった。それと、ブルースのレコード買って歌詞を覚えようにも、あの頃のは歌詞が載ってないからヒアリングするしかない。けどブラインド・ウィリー・ジョンソンなんかがあの声で歌ってるのを聴いてもヒアリングできんけんね(笑)  じゃあ日本語で、っちゅう発想かな。そんなときに柴山さんが「俺のカラダは黒くて長い」ちゅうのを書いてきて、それが72年の秋くらい。で、「また書いたけん」って柴山さんが詞を見せてくれて、また曲を作って、それを繰り返していくなかでメンバーもみんな共有のビジョンを持っていって。特に奈良くんが入った頃からはメンフィス・ジャグ・バンドみたいなイメージで曲作るようになっていって……なんちゅうか、この5人のメンバーは本当に奇跡の集合体やったよね、今思えば。

――そうしてそれほど時間を要さずにサンハウス独自の世界観が形成されたわけですね。

柴山: うん。それに、集中してそれなりに勉強したんだと思うよ、音楽を。

鮎川: 時間を捧げたのは間違いない。ちゅうか、捧げてるなんて気持ちもなかったけど。好きやけ、没頭しとっただけで。

柴山: それが大きかったんだろうね。「これ聴いたほうがいいよ」って言われたら、聴いてたし。そのかわり、こんなのは聴かなくていいやって排除するものもたくさんあった。当時からマコちゃんのなかでもオレのなかでも、いらないものはいらなかった。それを排除できる自信もあったと思う。そんな、なんでもかんでも取り込んだってねぇ。でも意外と5人の好みが合っていたのもあるかもしれないね。そりゃ全く同じではないけど、プログレなんかにかぶれたりするやつはいなかったね。

――『ドライブ』のジャケットなんかを見ると、ファッション的にはデヴィッド・ボウイとかグラム・ロックからの影響もあったようですが、それも自然に?

柴山: そうだね。お洒落するってことは、サンハウスをしよる前からもともと好きやったけんさ。あの頃はジーパンにTシャツっていうスタイルが世の中は多かったんですよ。レイドバックしたアメリカの、カリフォルニアに寄った感じのね。みんな汚いジーパン穿いてさ。そういう人たちがオレ個人は嫌だなって思ってたから。着物を着てステージに出たいとか、そういうけったいなことばっかり考えてて、自然にああいうカッコが身についたのかな。奇を衒ったつもりはなかったんですよ。

――でも相当異彩を放ってたんじゃないかと思うんですが。

柴山: まあ気持ち悪いって言われる可能性もあったしね。でも自分たちで曲を作ったら、その曲をどういうふうに相手に伝えればいいのかとか、あんまりわかんなかったから。だからわかりやすいカッコすればもう少し伝わるかなって思って、流行ってたピンク・レディーの「UFO」とかさ、ああいうのだって参考になったからね。ブライアン・ジョーンズとか見ると、フェスティバルに入ってくるときにひとりだけ回りと全然違うカッコしてるじゃない?  オレはあんなふうになりたいとずっと思ってたんですよ。普通と違うけど、そういうところに感動を受けた人間もいるってことでね。たまたまオレは目立ちたがりだったりするところが子供の頃からあったし。それはコンプレックスみたいなものも関係しててさ。初めてマコちゃんを見かけたときから、なんか自分にないものがあって、負けちゃったらもう自分の存在価値がなくなるみたいなコンプレックス。それはずっとあるし、未だにそうですよ。でもなんか、それが自分のなかでエネルギーになるっていうかさ。まったく太刀打ちできなかったら、話にならないからね、人間て。やっぱり対等に付き合えないといいものも出てこないから、そういうところで努力もするわけであって。だから、オレのためになってる。そういう人と出会えたってことは、すごく運がよかったのかもしれないね、オレは。



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