家族のことは書きにくい
イラストのこと、しごとのことは自分のことだから何でも書けます。
でも、家族のことは少し気後れしてしまう、それはやはり「他者」だからだと思うのです。
・他人と他者のちがい
・母との関係
・他者として接する
他人と他者のちがい
はじめ、妻は間違いなく「他人」でした。
よく知らない他人と出会い、結婚し、1つ屋根の下、家族を作るダイナミズム、それは間違いなくあると思います。
子どもは、後からやって来ます。
はじめから知っている、でも「他者」にはちがいないと思うのです。
他人と他者は似ていています。2つには「自分以外のもの」という意味合いがありますが、少しちがっていて、分けて使っています。
「他人」には見ず知らずの人、縁の薄い人という感じもします。
「他者」は、ぼく(自己)に対して存在するもの。という感じでしょうか。
母との関係
吉本隆明は、公演のなかで、日本の母子の関係をのべていますが、そのような自己と他者の切れ目のないような関係を、ぼくもあまり好きになれません。(ほぼ日で公演をお聞きいただけます→ 吉本隆明の183講演)
ぼくの母がむかし、子育てに悩んでいた時、「子どものことは100%と理解できるわけはない」と言われ安心した、とぼくに話したことがありました。
ケーブルをつないでデータを交換、コピーする訳ではないのですから。他者を100%理解できる、100%理解しようとするのは病の始まりくらいに考えた方がいいのかもしれません。
他者として接する
子どもは「他者」として接するようにしています。
子どもあつかいしない、というのとも、ちがいます。
子どもは、ぼくのものではありません。誰にも属さない、別個の人格があります。つまり他者です。
もちろん妻もです。妻も子どもたちも、他者として尊重、尊敬できる関係でいたいと思います。裏返せば、ぼくも彼らにとってそういう存在でありたいと思います。だからとても書きにくいのです。
・他人と他者のちがい
・母との関係
・他者として接する
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