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息子の不機嫌をごきげんに変えた術

息子が中学に入り、しばらく余裕がないかなと一緒に古典音読をしていませんでした。

しかし、自分がカタカムナを読んでからあれこれやると調子がいいので、息子の勉強の初めなどにもよかろう、やっぱり音読をしようとある日息子にテキストを渡しました。

息子は乗り気じゃないので全然まじめにやりません。ひたすら鼓舞して、先に大きな声で読みます。
わたし:「天道もの言ずして、国土に恵みふかし!」
息子:「天道もの・・・ごにょごにょ」(とても小さな声)
わたし:「もっと大きい声で!もう一度! てんどうものいわずして・・・」
テキストは井原西鶴の「日本永代蔵」。
わたし:「人は実あって、偽り多し。うんそうだそうだ!ハイ!」
息子:「ひとはじつあっていつわりおおし」
わたし:「いいねえ!その心はは本虚にしてものに応じて跡なし。ハイ!」
息子:「ごにょ、そのしんは・・・」
わたし:「んん?クソのしんじゃなーい!」
息子:げらげら笑いだす。
わたし:「一生一大事、身を過るの業~」
息子:「いっしょういちだいじ、みを、ごにょ、すぐるのわざ」
わたし:「ちがーう!なんで一生一大事に身をくすぐるんだ!こちょこちょしてる場合じゃなーい!」
息子:笑い出し、しゃっくり発症。

幼さが存分に残っている息子は笑いまくってすっかり機嫌がよくなり、「ほらこんなに楽しい音読をやらない手はないでしょう?」とわたしに言われても言い返しませんでした。実際文体がかっこいいのです、日本永代蔵。何度か読んで力強く一音一音を読めるようになり、ちょうど帰宅した夫に聞かせ、夫もなかなかイカした文だと思ったようです。

数日後、部活のことで息子の心が乱れました。
ボール拾いの時、同じ一年生と同じボールを取り合ったとかで、その子のキックが顔に当たり、その子がわざとじゃないと謝らなかったことに腹を立ててたようです。息子自身、普段何かやらかしたとき、言い訳ばかりで謝らないので、それはぼぼ君そのものだよと言いました。わたしが一緒にその子をなじると思ったのでしょう。当てが外れた息子はどんどん悲劇的になり、自室に行きました。

しばらくして部屋に行ってみると、これから宿題をすると机の前にいました。わたしはすぐそばにある古典音読のテキストを開いて、読み始めました。
わたし:「天道物言わずして、国土に恵みふかし」
息子、無言。
わたし:「人は実あって偽り多し」
息子:「聞いているだけでも頭がよくなると前言ってたよね」ムム!
わたし:「その心は本虚にしてものに応じて跡なし」
息子:「クソの心は本虚にしてものに応じて跡なし」笑いだす
よかった。笑った。その先を続ける。
わたし:「人間、長く見れば、朝を知らず。短くおもへば、夕におどろく」
息子、後に続く。
わたし:「そうだよ、ぼぼくん、小さいことだよ。楽しく生きなさいよ」
息子はなんとなく納得した様子、結局最後まで勇ましく読みました。

古典音読はわたしたち親子のコミュニケーションツールであり、先人たちの格言を知り、大きい声で頭に体に叩き込むこともできるのです。
これがわたしが意識している「自分の哲学を持つ」ことにつながっていくのかもしれません。

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