見出し画像

ゴッホの青い手紙 40

 テオよ、元気か?僕は昔から癇癪持ちだと言われている。これは子供のころからそうだったようだ。思い通りにならないと怒りが爆発してしまう。家系なのだろうか?変に思うかもしれないが今の方がおさまっていると言える。 
 ただ今はこんな生活をしているから、少し癇癪を起せば「やはりな。あいつはオカシイ、異常だ、気違いだ」と思われるだけだ。僕から見れば身なりや行動が少し変わっているだけの人間を「気が違っている」と見なす行為こそ異常なのだと思う。

  子供の頃はひどかった。前兆があるのだ。よくよく考えれば、思い通りにならなかったからではない。あの不思議な音が聞こえ始めるのだ。頭の中で・・「うわん、うわん、うわん」何が何だか分からなくなる。僕は何度も頭を抱え込んだよ。グーピルの頃は少し遠のいた感じだったが最近、昔のあの音が聞こえることがある。
 「うわん、うわん、うわん」という音だ。音と言うものは実に不思議だ。僕の頭の中はいつも高音の音が鳴っている。あの音は何なのだろう。確かに音には早さがある。教会の鐘の音など、音のずれが分かるし、猟の銃声だってそれを感じる。案外速度としては遅いのではないだろうか?だがね、頭の中で響くあの音は鼓膜を震わせる音ではない。
 頭の中で聞こえる音とは、いったいどこから発生しているのだろうか?あの音は光より早いと言えるのではないか?目で見るものが真実、現実と思いがちだが光だって速さがあるだろうし、目から入った情報は頭の中でかなり処理されて認識するのではなかろうか?
 普通、聞こえる音は空気を伝わって鼓膜を震わせるから遅いだけだ。最近、僕はこの音が左右に脳の中で鳴り響くことがある。分離して聞こえるのだ。もしかしたら星や太陽、月、もしくは大地などの何かが発しているのを直接鼓膜ではなく脳が感知していると思ってしまうことがある。信じないとは思うが僕が思う分には誰にも迷惑をかけることはないだろう。
 光も不思議だ。光かなければ絵画など存在しないことは明白だ。夏のあの日差しは植物を成長させる反面、物質を劣化させることもある。陽が短くなる秋には植物を実らせる。麦のように逆手を取って日が長くなる時に実を結ぶものもあるから尚不思議だ。

 僕はどうも真夏の太陽が好きなようだ。過去を振り返れば冬にいつも気が滅入ることが多かった。だが今太陽の光を存分に浴びていられるのは幸せなことだ。しかし喜んでばかりはいられない。太陽の日差しは私を成長させるかもしれないし劣化させる可能性もある。それに収穫の時期も近いということも考えられる。

 僕の人生はもう収穫の時期を迎えているのだろうか?刈り取りの時期が迫っているのだろうか?人生とは何だろう?僕が家に帰った時、皆が僕に勧めたような人生を歩めばそれで良かったのか?パン屋の見習いでもやって慎ましく生きて家庭を持ち子供が出来、人生を終えればそれで良かったのか?僕は僕自身の人生を自分で選択してきたつもりだ。

 僕の人生はやはり求道者なのだ。牧師の道も絵描きの道も基本的には同じだった。人に対する布教の道は拒絶されはしたが、その表現を絵画に置き換えただけの話ではないか。僕に迷いなど微塵もない。美術の世界。人類は確かに過去から芸術作品が残されている。素晴らしいものだ。だが、青い手紙の中で僕が読み解いたように、それは多くの制約の中でモガキ苦しんだ結果の遺物でもある。遺物は遺物なのだ。僕も一旦遺物と見なし前進せねばなるまい。自分というものを素直に表現できる千載一遇のチャンスなのだ。

 ルネッサンス以上のルネッサンスそれが今なのだ。確かに我々は過去の巨匠に比べれば小粒なのかもしれない。小粒だが自分を表現できるではないか?依頼がなくとも描けるなんてこんな素晴らしい自由が過去にあっただろうか?まずはこの人類史上初の状況を享受すべきなのだ。なのに、早くも印象派は小粒同士でいがみ合っている。愚かなことだ。そんな暇はないはずだ。確かに絵画を欲する側も大きく様変わりをしている。王侯貴族から小金を持ったブルジョワに変わってきている。彼らもまた完全に目を覚ましてはいない。サロンで評価された絵画を良いものだと思っている。しかし、君もそう思うだろうが、サロン入選の絵画と印象派の絵画、見れば歴然だろう。サロン入選の絵画が百年後評価され続けているとは僕には思えない。
 アングル、ブルトン、ドラクロア、クールベ、ミレーくらいは残るだろう。端境期なのだ。テオよ。僕らは素晴らしい時代に生きているのかもしれない。天才たちが怒涛のように押し寄せている。まさに今押し寄せている。僕はこんな時代にパン屋の職人は謹んで辞退させていただく。たとえ短い人生になるかもしれないが、僕は太陽に向かって咲き誇る向日葵になりたいのだ。握手。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?