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ゴッホの青い手紙 38

 テオよ。まずは握手。視点とは何だろう。絵を描くときの視点もあれば、観る側の視点もある。それはそれとして僕は今まで農民を描いてきた。描いてきたとは言うが模写がほとんどだ。正確に言えば農民は描いたが農作業者を自分では描いていない。初期の頃ジャガイモを掘る農民を描いたが駄作だ。ミレーの模写がほとんどだ。炭坑夫の下手糞なスケッチは昔ピーテルセン牧師に見てもらったことがあるがね。ボリナージュの頃の話だ。

 「ジャガイモを食べる人々」のデ・フロート家の皆はモデルになってもらった。チャンとね。だがね、自分で農作業をしている人を絵にはできなかった。僕が農作業をしている人々の傍らで絵を描くことができるだろうか?相手の視線で考えてみたらどう思うだろうね。立場という言葉でも置き換えられるだろう。仕事をしていて忙しい最中、僕は絵筆とパレットを手に持ちキャンバスに向かっているわけだ。早い話目障りではなかろうかと思うのだよ。
 ミレーは薪割をする人や藁を束ねる人を描いている。あれはポーズをお願いして描いたものなんだよね。やはりそうするしかないんだよ。農民から見て僕たちはいったいどのように見えるのか?どの様に思われているのだろうか?キリストや聖母を飯のタネにできなくなったので今度は物珍しい農民の生活を描くのか?などと思っているのだろうか?
 私たちの仕事がそんなに価値があるのだろうか?価値があるとするならばこの貧しさはいったい何なのだ。考えすぎかもしれないがね。モデルでも頼まれれば多少なりともモデル代貰えるから良いが、ただ自分の作業を描かれても一文にもならないとか思っているのかもしれないね。
 僕はだからあまり作業風景は描かなかった。観察はしたよ。人体の動きはね。だから、ミレーの教材は役に立った。添削したくらいだからね。ミレーは農民画家と祀り上げられているが、農民だって金が欲しいし、楽はしたいし、遊びたいんだよ。神聖な仕事なんて勝手に思い込まれて迷惑じゃないんだろうか?
 何か現代の金持ちが調子づいて貧しくとも神聖な階層をでっちあげて良い気分に浸っているだけではなかろうか?農作業中はそりゃいろんな話するよ。下ネタばかりだ。僕が目を丸くするくらいだからね。そうかと思えば、麦畑の中で楽しいことをしている場面にも出くわした。そんなこんなひっくるめて農民なんだよ。そこを忘れてはならない。その意味で農民からの我々を見る視点を忘れてはならない。セザンヌの様に視点の変更を画面の中に取り入れる画家もいるが、人生においても視点を変えてみることは重要だと思う。僕が言うのもおかしいが・・・焼却頼む。


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