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ノッティングヒルの隣人。

ロンドンで2番目に住んだFLAT(アパート)は、Notting Hill Gate 駅から歩いて3分という、夢のような立地にあった。
東京で言えば、代官山とか、あの辺りが近いかもしれない。おしゃれな店やレストランが沢山あり、物件もそこそこ高い。
私が住んでいた頃は、90年代半ばだったので、まだそれほど高くはなかった。

日本で言う一階と地下一階が使える2LDKの物件。一階と地下は、螺旋階段で行き来し、地下のキッチン半分は、吹き抜けになっていて、畳一畳分ほどの天窓からは青空が見えた。

私は、このキッチンが大好きだった。
地下には、6畳ほどの外庭があり、時々、上の階の人が物を落とす。ある時、銀鮭が丸々一匹入りそうな大きさの発砲スチロールの箱が落ちてきて、度肝を抜かれたことがある。

向かい側の窓には、隣のおうちのベッドルームが見え、ある時期から赤ちゃんの泣き声が聞こえた。泣き声は、まだ、か弱く生まれたばかりのようだった。赤ちゃんの泣き声は、とても心地よかった。うっとりしながら聞いていたら、お母さんらしき女性がやってきて、抱き上げた。

すると、赤ちゃんは、ピタリと泣き止んだ。

数秒ほどのシーンに、じわじわと鼻の奥が熱くなり、気づけば、涙を流していた。カーテン越しに見ていた私に、お母さんが気づき、それはそれは優しくにっこりと微笑んでくれた。

ごめんなさい。覗き見しちゃいました。

なんて素敵な家族なんでしょう。
私を泣かせたこの隣人を、私は心地よく思っていた。
さすが、Notting Hill Gateだ、セレブ感ある〜!

が、その日は、突然やってきた。

その日、学校は午前だけだったので、帰宅して課題などタラタラと行っていた昼下がり、ドアベルが鳴った。

モニター越しに見ると、スーツを着た紳士だった。

「はい、どちら様でしょう?」

「ここの物件を扱っている不動産屋です。ちょっとお話ししたいことがあるので、少しだけ出てもらえませんか」

ん?私、なんかやっちまったか?

紳士は、丁寧な言葉使いだったし、確かにその不動産屋の名前は、私も世話になったところだったので、廊下に出てみた。
紳士は合鍵でメインのドアを開け、廊下に立っていた。

「お隣さんですが、お付き合いありますか?」

と、紳士は聞いてきた。
良かった。私の話ではないようだ。

「いいえ、時々、挨拶するくらいです」

「最後に見たのは、いつですか?」

「んー、覚えていません」

「そう、覚えていないくらい前なんですね?」

と、紳士は探偵のようなキリリとした目で私を見た。

コナンか、キミは。

「お隣さん、いなくなってしまったみたいなんです」

「いなくなった?引っ越しされたのですか?」

「いえ、違います。ドロンしちゃったってことです」

そんなあ!そんなことありませんよー!赤ちゃん生まれたばかりだったし、優しそうな奥さんでしたよー!

と、驚いた私は、がっつり個人情報を垂れ流してしまった。

「そうですよね、そう思いたいですよね。でも、家賃が何ヶ月も引き落とされていないんですよ。何度か通ったんですが、いつ来ても留守のようで」

ありゃ〜。

それで、何故、私を訪ねてきたのですか?

そう思ったのと、ほぼ同時に彼はまくしたてた。

「お隣さんは、絶対いないと思います。不動産屋の特権で、今から、合鍵でドアを開けるつもりです。申し訳ないのですが、あなたに立ち会いをお願いできませんか?」

隣人にもドアを開ける特権はあるのだろうか。

いやいや、殺人現場になっていたら、どうすんのさ?!

いや、まさかね、あの優しげなお母さんが、そんな目にあってるわけない。

今なら絶対、断っていただろう。が、どこかに怖いもの見たさという若気の至りがあったと思う。

「分かりました」

と、答えていた。

「さあ、開けますよ。準備はいいですか?」

コナンは、そう言った。
まるで、バンジージャンプを一緒に飛ぶみたいじゃないか。

どど〜ん‼️


もぬけの殻だった。

玄関を開けたそこは、リビングになっていた。
ソファの上には、数個のクッションが散らばり、床には紙切れだの書類だのシーツだの、ありとあらゆるゴミが散らかり、テーブルの上は、お皿が何枚か置かれたままだった。
まるで、敵軍が襲撃してくる噂を聞いた一族が、慌てて準備をし、命からがら逃げ去った住居跡、という感じ。凄まじい状態だった。

「ね?ドロンした跡でしょう?」

コナンが、満足気に言い放った。

言葉がなかった。

なんで?シアワセを絵に描いたような家庭に見えたのに。何故?何があったの?

優しげなお母さんの一家は、私の淡いシアワセ像まで蹴散らして、いなくなってしまった。

「今から掃除屋さんを頼み、この部屋をきれいにします。ありがとうございました。お忙しいところ、すみませんでした」

コナンは、サバサバと、次の手段に出た。

「お隣さんのことは、どうするのですか?」

裁判沙汰にでもなるのだろうか?

「いなくなってしまった家族はもう詮索しません。それよりも、ここは家具を全部入れ替えて、もっともっと高い家賃で貸すことにします」

と、自慢げに語った。まるで、隣人の払えなかった家賃を急いで取り戻すのだ!と、宣言するかのように。
イギリスは長い長い不景気のトンネルを抜け、バブルの風が吹き始めていた。


ぽっかーん。である。


早々にお役ご免になった私は、自分の部屋へ戻った。
そろそろ、この部屋も家賃を上げるからね!と、言われてもおかしくないなと、思った。

案の定、その数ヶ月後、コナンから電話があった。

「そろそろ、契約期限が来ますね」
と切りだした。

「はい、家賃は、上がりますか?私、ここが気にいっているので、更新したいのですが」

そう私が言うと、コナンは、

「いえ、契約は終了にさせていただきたいのです。お隣さんを覚えていますか?今、お隣さんの家賃は、あなたが今住んでいる部屋の2倍の家賃になっています。あなたの部屋も、家具を全部入れ替えて、今の2倍の家賃で貸す予定です」

はー?!

今の2倍の家賃?!

払えるわけないでしょう。足元、見たな、コナン。

いや、コナンは、怪盗 KIDみたいに狡猾になってしまった。

タマシイを売ったんだな、コナン。

翌日から、物件探しを始めた。
Notting Hill Gateは、離れ難かったので、同じエリアで探した。

もしかして、あの優しいお母さんにバッタリ会えはしないかと。と、チラリと思ったのかもしれない。

そして、伝えたかった。
お隣に住んでいた時間は楽しかったです。
赤ちゃんの泣き声は、素晴らしい音楽でした、と。

※purleymayさん、また写真をお借りしました。
ありがとうございます。purleymayさんの写真は、私がイメージするLondonそのもの。素晴らしいです。



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