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イヴ・サンローラン:万人におしゃれを(人へのオマージュII)

 1966年、この年はイヴ・サンローランの歴史の中で最も大きな改革が行われた年です。おしゃれを万人のものにするための第一歩がこの年に踏み出されました。オートクチュール界から初めて“左岸”に prêt-à-porterプレタポルテのブティックをオープンさせたのです。

 その名も“リーヴ・ゴーシュ”。コレクション名、一号店の場所、手に取る人たち、全てが左岸と結びついていました。オートクチュールコレクションが“右岸”を連想させることから、プレタポルテのモチーフを“左岸”にするのはどうかと、彼のパートナーであるピエール・ベルジェにより命名されました。

 “左岸”にブティックをオープンさせることはイヴ・サンローラン自身の大きな望みでもありました。

 「プレタポルテ」という言葉は日本語でいうところの既製服です。prêtは“準備の出来た”、porterは“身につける”を意味し、英語に置き換えると“ready to wear”、直訳すると“身につける準備が出来ている”ということになります。

 既製服の販売はアメリカでは既に主流となっており、実用的なこの手法はクリスチャン・ディオールをはじめ、フランスの多くのクチュリエが早い段階から注目していました。プレタポルテコレクションの発表はピエール・カルダン がいち早く行っています。しかしながら、アメリカの既製服はファッショナブルではなく、イヴ・サンローラン以前のプレタポルテコレクションはどれも実験的なもので、手に取るのは上流階級の人々でした。フランスにおいてもこの時代の既製服は創造性にかけおり、いささか時代遅れでした。オートクチュールほどの資金がない店が、既製服を積極的に販売していたといいますが、満足するものと巡り会うことができずに、改革の熱を秘めていた若者たちのおしゃれに対する欲は満たされずにいました。

 プレタポルテコレクションを発表するにあたりイヴ・サンローランがこだわった点は、オートクチュールのデザインのクオリティーを出来るかぎり保つことでした。「庶民は庶民らしく」という上流階級の根底にある差別的な価値観が、以前のプレタポルテに残っていることを彼は感じていました。オートクチュール界への警告と、自身の発想の自由さを発信するためにも、上質なデザインにこだわり続けました。

「服が安くないのは分かっていたけれど、オートクチュールほどには高くないし。雑誌で見た素晴らしい服を買おうとか考える事が突然できるようになったのよ。もうコピーものを買う必要もなくなった。それにサンローランはものすごい憧れの的だった」 と服飾史家のカテル・ル・ブーリスは当時を振り返っています。(参考:アリス・ローソーン『イヴ・サンローラン 喝采と孤独の中で』日之出出版2000 p. 103)

 背伸びをしてオートクチュールを手にしていた中流階級の人々は“リヴ・ゴーシュ”を利用するようになり、次は学生が背伸びをしておしゃれを楽しむようになりました。おしゃれをすることは“リヴ・ゴーシュ”と共に、瞬く間に波及してゆきました。

 注目すべきは、上流階級者も“リヴ・ゴーシュ”を利用するようになったことです。最新のオートクチュールコレクションの発表後に行列に並んで仕立て上がるのを待つよりも、“リヴ・ゴーシュ”を訪れた方が早く新商品を身につけることができるからです。イヴ・サンローランのプレタポルテは上質かつ最先端であるが故に万人に受け入れられ、階級の差を埋める第一歩となったのです。

 イヴ・サンローランは次のように語りました。

J'en avais assez de faire des robes pour des milliardaires blasées. 感動しなくなってしまった億万長者たちにドレスをつくるのはうんざりだった。(日本語訳筆者)

 この言葉はイヴサンローラン財団HPで紹介されていたものです。当時の店内の写真なども掲載されておりますので、ご覧ください。

 次回は、“リーヴ・ゴーシュ”に通ったミューズのひとり、女優カトリーヌ・ドゥヌーヴをとりあげます。

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