おしまいのデート

「もう好きじゃなくなったみたい・・」

約3年お付き合いして、半同棲して、実家に紹介もした。結婚すると思ってた彼女にそう言われたのがつい先週。

 

予兆がなかったわけじゃない。

LINEの返信が遅くなったり、半同棲と言いつつ会う回数が減ったり・・。

でも3年も付き合っていてお互い忙しいからそんなもんかと、どっかでゆっくり話さなきゃなと思っていた矢先の宣告だった。


嫌いになったわけじゃない。

ただ少しずつお互いの大事にしたい価値観やコミュニティが変わっていった。

僕はそれを対話で乗り越えるのがパートナーだと考えていたけれど、彼女は僕との関係性を友達以上に見れなくなっていた。

長く話し合ったけれど、感情は理屈では変えられない。


「最後にデートしようよ」

ふいに口をついて出た僕の言葉。一縷の望みを託していたかもしれないけれど、いろんな意味でこれでおしまいにはできなかった。


涙を拭って、それぞれ自転車を漕いで、二人で手を繋いで金華山を登った。

金華山は付き合う前に二人で夜景を見に行って、僕が告白するか悩んだ末にできなかった思い出の場所。その後お互い紆余曲折ありくっついたけれど、あの時もしも告白していたらフっていたらしい。

そんな金華山に、別れるための最後のデートなんて人生は不思議だ。


「お互い年を経ったね」

久しぶりの山道にひいひい言いながら登る。降りて来る中高年の登山客に笑顔で挨拶しながら、随分仲睦まじいカップルに見えたのではと皮肉に思う。

頂上からの景色は曇り空の割には綺麗で、遠くの雲の切れ間からは光が射し込んで降り注いでいた。僕の人生が変わった岐阜のまち。二人で腕を組んでゆっくり景色を見た。


帰り道はロープウェイ。あれだけ必死に登ってきた道を僅かな時間で簡単に降りて行く。思えば彼女は、大学4年間の青春のほとんどを僕と過ごしたのだ。無事にロープウェイは地上に着いて、僕らはバイバイした。泣きながら自転車を漕いで帰った。


この週末はイベント参加で東京に行ってきた。

行く直前に彼女への手紙を書いて置いた。未練タラタラの駄文だ。

東京から帰ってきたらあれだけ片付けが苦手だった彼女の持ち物が、一切合切僕の部屋から消えていた。代わりに置いてあった手紙には惜しみない愛と僕の夢へのエールがシンプルに綴られていた。彼女の固い決意に心が震えた。

 

「岐阜で一番素敵なカップルになれたと思っている」

彼女の手紙の一文に僕は同意する。彼女は誰からも愛される、真っ直ぐで勇気ある素敵な人だった。僕の活動の側ではほぼ必ず彼女が支えてくれた。そんな彼女と共に過ごせた時間があってこそ今の二人がある。


人生は長い。僕らの世代だと100年以上はきっと生きるだろう。

これからもっとたくさんの出会いと別れがあって、またいつか巡り会う人もいる。だけど突然に、永遠の別れが来る人だっている。

 

寿命が伸びるとはいえ、当たり前だけど僕も明日死ぬかもしれない。

有限の生命である事は、過去に大切な人を亡くした記憶からも痛いほど知っている。でもいつもは忘れてしまっている。


「愛」とは何か、ずっとずっと考えている。

僕と彼女は愛がなくなったから別れるのか?それは違って、むしろ狂おしいほど愛している。僕が思う「愛」とは「その人の幸せを想う」ことだ。

物理的な距離の近さや表現方法は異なれど、互いの幸せを想うことには変わらない。


それぞれの人生だけど、乗っかっている想いはたくさんあるんだ。

僕も彼女もより良い人生をこれから歩む確信がある。お互いもっともっと愛してやまない人に巡り会う気もする。今は辛いけど強く生き続けなきゃならない。当分、友達には戻れない。


でもいつかどんな形かわからないけどまた縁が交わる時には、頂上から見えた優しい光が射す場所で会えたらと思う。

 

今までありがとう、またね。

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