20代記録②



記録


感情は生き物だから、いっときの感情や発言を全てだと思ってはいけない。

そして、他人もそうだということをみんな忘れてしまう時がある。自分の人生の中で培ってきた正義が、それを忘れさせてしまう。 


人の悪口を言ってしまうことはあるけど、自分もそれに当てはまっていた過去があるかもしれないことをその瞬間忘れている。

でもその瞬間くらい忘れても良い。

その代わり、感情が生きていることをもっとお互いに認めてあげなくてはいけないし、その時から未来にかけての成長や経験に繋げる責任はある。





20歳から27歳まで幼稚園の先生をしていた時、自分が正しいと無理にでも思わなくては仕事にならないことが多くて辛かった。

自分の発言や行動が、自分のクラスのルールになる重圧は今思えばすごく重かったし、その頃はただやるしかないという気持ちで仕事をしていた。でも子供と共に成長していけることがやりがいでもあった。子供の力は本当に素晴らしい。

あの職場で社会での精神力はかなり鍛えられたけど、柔軟な思考には欠けていた。


上司に気を遣う為だけの効率の悪い時間に疑問を持ちながらも、ただその時できることをフルパワーでやっていたが、結局だんだん耐えられなくなって「子供といる時以外結構地獄かもな」と3年目に気づいた。


未熟なことを隠して努力していた時間は、未熟なことを隠さずに努力していた人に負けていた。それがとても勿体無かったと今思う。

正直、半分意地で7年働いた。悔しかったし成長したかったから。

後輩にはこんな思いさせたくないとか、少しでもこの環境を変えられるようにまずは自分が上司や保護者から認められなくては、とあの頃の私が本気で思っていたのは健気だし偉かった。

その正義感や行動力は、私の根っこにまだずっとあるし、そういう気持ちを持てたことがこの仕事を続けて良かったことのひとつだと思う。


そしてその正義感を使う相手は、こちらが選んでも良いということを学んだ。





恋愛でも友情でも人を好きになることもエネルギーがいるけど、人を嫌いになることはもっとエネルギーが必要。


でもそのエネルギーは長期的に考えたらとても必要なエネルギーだということも分かった。


人のことを苦手と思うことは悲しいけれど、全員と仲良くすることなんて無理だし、そんな必要もない。


苦手な人と全く関わらない、出会わない人生はない。
どうしても関わらなくてはいけない時だってある。

その人とどう距離を保って関わるかは、これからも悩むだろうしそれで悩むことが悪いことではないということが分かった。それは今後も学び続けるんだと思う。
もちろん好きな人との距離感も同じ。


そして本当に我慢できないほど嫌な時は、嫌だと伝える勇気も少しずつ持てるようになった。

それはいま周りにいる人たちのおかげだと思う。
私は本当に周りに恵まれている。とてもありがたい。
20代で知り合った友達、今でも付き合いのある友達は、強くて優しい人が多い。





20代前半の私は、自分が正しいと思いすぎていた。

というか自分が正しいと思うことを主張することは、正しいと思っていた。 

知らないうちに、自分の不完全なところを自分の正しさで必死に隠していた。

不完全な自分を受け入れるのには時間がかかるけど、受け入れた時の楽しさは自分をかい被っていた頃よりもかなり大きい。そして、相手を受け入れられるスペースも広くなった。と思う。これは諦めとは違う。


恥ずかしいことを人に言うことは、実はとてもかっこいい。








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