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文化村style 〜目白文化村lifeのススメ〜

 目白文化村・・・ “目白” とは言うものの、実際のところは新宿区。大正時代、箱根土地(現・西武グループ)によって分譲された際にそう呼ばれたらしい。地元では落合文化村、もしくは文化村とだけ呼ばれたりもするし、分譲時期由来の冠を付けて第一文化村〜第四文化村などと呼ばれることもある。僕はいわゆる第一文化村で育った。我が関口家は文化村が分譲され始めた当初からの住人、まあ古株だ。

 子供の頃、店屋物を注文する際、祖母は必ず電話口で「文化村の関口ですけど・・・」と名乗っていた。住所など言う必要はない・・・それで問題なく届くのだから。家の前で友達とキャッチボールをしていると、お米屋さんや魚屋さん、八百屋さんが勝手口から入って行く。祖母の電話で呼び出されることもあったようだが、「そろそろ(商品が)切れるかな?」という頃には自らの足(大抵スクーターに乗っていた)で注文を取りにやって来る。今風に言えば、さながら “注文履歴からのamazonオススメ” とでも言ったところか。もちろん配達もしてくれる。

 こんなふうに書くと、「どんな大豪邸の御坊ちゃまだったんだ!」と思われる方もいるかも知れないが、全然そんなことはない。僕が小さい頃の文化村では当たり前の光景、日常だった。80年代前半(バブル期前夜)までは、隣近所、何処の家もそんな感じだったように思う。
 

地元でレギュラーの鳶の親分さんや、近所のよく知らないおばさんからは「関口さん家の坊ちゃん」と呼ばれた。仲良くなると「純ちゃん」だ。この呼び方が文化村の “仲良し指数” となる。
 

山ノ手ならではの「親しき仲にも礼儀あり」というのもいい。要するに、他人の領域(生活)に土足で踏み込むようなことはしない。そういえば、敬語を使っている人が多かったように思う。今思えば、あれは生きる知恵だったのかも知れない。要するに、 “敬語” を使うことで、「私はあなたに、こうして敬意を持って接しているのですから、あなたも私に敬意を持って接して下さいね」というサイン。 “他人の自由”も認める代わりに “自らの自由” を確保する術。まさに生きる知恵! これを “文化” と言わずして何と言おう?

 芸術家、学者、経営者など、家をベースに仕事をしたり、英気を養ったりする職業の人間が多く暮らしたことも特筆すべき点であり、私が考える昨今の在宅ワークにおける一つの指針 ”work life balanceからwork as lifeへ“ 、そうした古くて ”新しい働き方“ を考える上でも大いなる示唆を与えてくれる。

 老若男女問わず、文化系を自認する諸君にとってはなかなか魅力的な環境なのではないだろうか? 何より “自由” というのがいい。自分自身の経験で言えば、社会=世間に出る・・・電車に乗って学校に通い、他の地域の人と交流する・・・までは、ある程度の “生きやすさ” を担保できていたように思う。

 特に僕の場合、曾祖父さんという人が書家の会津八一氏、音楽評論家の兼常清佐氏と並んで雑誌『サライ』の特集「文化村の中流生活」で “文化村の三奇人” と称される人物だったことも手伝って、「関口さん家のお孫さん(厳密には曾孫)ならしょうがない」と、ちょっと治外法権的なところもあったので尚更。
  まあ、要するに一歩、世間に出た途端、「横を見て、列にはきちんと並びましょう!」となる訳で・・・そりゃもう、生き辛いったらありゃしない! 
 
  “自由” “生き辛さ” といったキーワードで「ウンウン」と頷く人には間違いなく文化村的中流生活がオススメです。ちなみに現在、実際の文化村に引っ越したところで “自由” は見つかりませんので惡しからず。
 ですが文化村の精神、そのlife styleは形を変え、今でも私の中に脈々と受け継がれ、再び “自由” を獲得するその日を虎視淡々と狙っているのであります、ハイ。
  

 そこで、いわゆる “文化村の空気を知る最後の世代” いわば “残党”として、ピアノを弾いたり作曲したり、文章書いたり庭いじり? 本を読んだり映画を観たり、モノを創れば常識壊して、今日もニコニコ笑顔で挨拶。といった具合に、そう! いわば ”現代における文化村style“ とでもいったようなものを “世に生き辛さを感じている皆さん” と共有していければ、「此れ幸い」と思っている次第であります。

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