写植機の音の記憶

 先日、もと写研の今田欣一さんの講演を聴く機会があり、私個人として記憶を揺さぶられたので記しておきたい。これは、私の個人的な音の記憶である。だが同時に、わずか30年かそこいら前には東京中にあふれていた音でもある。

 カタン、キー、ガチャン、キーガチャン、ガチャン、ガチャン。写植機の音。私はこの音を聞きながら育った。人にはそれぞれ忘れられない音の記憶があると思うけれど、私にとっての忘れられない音は写植機・・・写真植字機のそれだ。

 多くの人にとって、写植機と言っても何のことやらわからないものと思うから、少し説明をしておこうと思う。今、印刷物の元データの作成は他の多くの業界と同じように、汎用コンピュータにインストールされたソフトウェアを使って行われる。ほとんどの会社においてそれはアメリカのアドビシステムズ社のソフトウェアで行われるわけだけれど、それはせいぜい西暦2000年前後から先に一般化した光景であり、その前には全く違う光景がそこにはあった。写植機から出力された印画紙をカッターで切り、ペーパーセメントで貼り込んでいく光景である。いささかシンナーくさいこの光景を、私は鮮明に覚えている。

 今の汎用コンピュータにインストールされたソフトウェアによる印刷物の元データ作成、DTP、DeskTop Publishingの前には、電算写植機によって印刷物のテキスト印字作業が行われていた。電算写植機というのは要するに他の多くの業界で見られたようなPCアーキテクチャを用いた専用ハードウェアである。印刷データ作成にも例外なくそういう時期はあった。そして、電算写植機の前、1970年代から1980年代にかけては、手動写植機の時代があった。

 「手動」写真植字機を最初に実用化したのは、日本の石井茂吉と森澤信夫だ。もともとのアイディアはイギリスやドイツにあったらしいのだが、基本的に文字幅が変動する欧文組版に対して、正方形を基本とする日本語組版は写植機の実用化には有利だったらしい。1924年に特許出願がされ、翌年には試作機が完成している。このとき石井と森澤の両名が勤務していたのは「星製薬」。あのSF作家の星新一の父親が経営していた会社である。このあたりのことはもっと掘りたいのだが、まだ機会が無い。

 石井茂吉はその後独立して東京の大塚を中心として「写研」を創業し、森澤信夫は同じく大阪を拠点に「モリサワ」を創業した。この2社の興亡史は印刷に関わったある程度の年齢以上の人であれば誰もが知っている。DTP化を契機として両者の運命は交錯し、結果としてDTP用フォント提供を承諾したモリサワが写研に替わってリーディングカンパニーの座を得るに至った。

 私の実家にあったのは写研の手動写植機だった。確か、「SK-3RY」という機種であったと思う。そのあと、「PAVO」という機種に替わった記憶がある。両者ともベストセラーだったらしい。

 写植機がそれまでの活版印刷に対して持っていた技術的アドバンテージは、なんと言っても文字のサイズを自在に変えられたことであったようだ。写植機は「文字盤」と言われるガラス板に刻印された文字を、写真機のターレットファインダーのように大きなドラムの周りに装着された拡大縮小レンズで文字サイズを変えて印画紙やフィルムに焼き付ける。これは要するに「複製されたハンコを並べて刷る」活版印刷では考えられないテクノロジーだったはずだ。

 写植機のレバーを軽く押し込むと文字の位置を微妙に修正しつつ文字盤はロックされ、もう一段押し込むとシャッターが落ちて印画紙に文字が印字される。現在のDTPの工程のように一旦文字列を記憶しておく仕組みはなく、レバーを押し込むとすぐに印字される原始的な仕組みではあったが、当時はこれをIT技術に頼ることなく精巧な機械加工による光学技術によって実現していた。スゴい話だ。写植機のレバーの手触りは実に精巧で挙動が確実な機械だけが持ちうるそれであったことを覚えている。これは実に気持ち良かった。

 ただ、この「サイズを自在に変えられる」というアドバンテージは広告などの分野では明らかに優位性があったものの、ほとんど本文の文字サイズを変えずに刷る書籍の本文組版ではさしたる優位性が無かったようで、そちらの分野ではかなり後まで・・・電算写植機が一般普及するまで活版印刷は生き残っている。このあたりは近代印刷技術史の面白い部分だ。活版印刷末期の技術、ライノタイプやモノタイプについてもそのうち話を聞いてみたいのだが、うかうかしていると聞き逃したまま終わるかもしれない。工業史というのはあまり文献資料に残らないだけにそういう懸念はあるのだ。

 私の実家では間近にあった出版社のニーズに応えて写植機でキャプションの文字の印字をしつつ、その文字とセットで教科書などに載せるイラストを納品していた。写植機で文字を打つのが母親の役割、百科事典などの絵をもとにイラストを描き起こすのが父親の役目だった。トレーシングペーパーに丸ペンでイラストを描くために丸ペンに付きすぎた墨を布で拭う「カーッ」という乾いた音が、もう一つの忘れられない音である。こちらは多分もう聞けないのだろうと思う。

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