発達障害と診断され、その2

いよいよ、高校進学。もう行ける高校が限られており、何とか、進学を果たしました。が、とてつもなく荒れている環境。しかしながら、何とか通う事に

その頃には、母と父の関係性も最悪な状態に...
母は、弟に注力するのを更に加速していき、僕は祖父母と共に、母とは別に生活を送っていました。

毎日の高校生活が、苦痛の連続、授業なんて物が
存在していないかのような環境。そんな日々を、
優しく迎え入れてくれる、祖父母の存在。それが
当時の、僕の精神的な支えでした。それと、唯一
理解してくれていた、親友ですね。その親友との交流は、現在でも継続しています。僕にとっては、欠かす事の出来ない存在です。

後、僕がその頃の支えとして、映画を観ることに没頭していたように思います。これは、父の影響が大きな物だと思いますが、多い時には1日5本程度観ることもあり、次第に映画の世界へのめり込んでいくようになりました。そんな、日々を過ごし、何とか進級もしていくなかで、相変わらず母との口論は
過激になっていき、家庭内暴力の頻度も増していくなかで、父にも、体力的に勝る結果となり、誰も止められない状況になりました。

そして、高校2年の時に、ついに父と母が離婚をすることになる。当時の心境としては、特別に寂しいなどなく、あまり感情がなかったかのような記憶しかありません。

流石に、父が荷造りをしている姿には、一抹の寂しさを感じたものの、それ以上の感情はなく、あっけらかんといったような物でした。その頃から、母との関係性も更に悪化していき、ついには、家を飛び出す事になる。

いく宛もないので、親友の家にしばらくの間寝泊まりをして、そこから学校へ通う日々を過ごしておりました。親友の母親も優しく接してくれたので、はじめて、自分の居場所が確保されたような感じを受けたのを記憶しております。

そして、いよいよ進学か就職かの選択を迫られる事に、学力がないじぶんにとっては選択肢は一つしかなく、就職に向けて頑張ろうと心に決めていましたが、母親と学校の先生との間でのやり取りで、当時はだ、さほど認知がない介護福祉士の専門学校をうけないかと、先生より薦められました。

しぶしぶ、専門学校を受けることになりますが、何校受けても、結果は不合格の山。半ば諦めかけていたとき、最後となる専門学校に合格することに。

2年間通うことで、介護福祉士の資格を取得出来るというものでした。当時の澄んでいる場所からは
少し離れていましたが、通う事になります。しかしながら、あまりやる気がなく、授業にもついていけない状態でして。どちらかというと、その頃はバイトをして、稼いだお金で遊ぶ事が楽しかったです。

テストも、毎回赤点の山。その度に追加料金を払い何とか留年せずに、行けてました。2年間とは早いもので、今度は就職といった事に悩まされる事に、
受けますが、不採用の通知ばかり、多くの同級生が採用されていくなかで、なかなか決まらない事に、
自分では、特に焦りを感じなかったように記憶しておりました。

しかしながら、一ヶ所採用されました。しかし、伊恵から通うには、余りにも離れており一人暮らしをせざる得ない場所でした。

そして、悲惨な一人暮らしの幕開けが...