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ムーンチャイルドの新作を聴いて、改めて感じる前作の比類なき美しさ

「スターフルーツ」での変化


 ムーンチャイルドの新作「スターフルーツ」が発売された。先行で公開されていた曲を聴いて楽しみにしていた通り、穏やかでチルなムーンチャイルドらしさはそのままに、楽曲はバラエティに富む内容。ゲストラッパーやシンガーを迎えた「歌もの」アルバムであり、そのためかこれまでのムーンチャイルドよりも、「バンド」としてサウンドをおさまりよくまとめる方向に制作されていると感じた。


 サウンドの方向性、または、コロナ禍による影響は、クレジットの違いからも読み取れる。
 「スターフルーツ」の録音は OUR BEDROOMS、CABIN IN LAKE ARROW HEADと続くのに対し、「リトル・ゴースト」の録音はBLUE DREAM STUDIOS、a couple of LAKE ARROW HEAD CABIN、 OUR BEDROOMSと続く。つまり、新作はOUR BEDROOMS(文字通りの「寝室」なのか、彼らのスタジオ名なのか判断できないのだが)を軸に、より内側にこもったプロダクションになっているのだ(録音、ミックスがムーンチャイルド自身というクレジットは変わらず。マスタリング・エンジニアは変更)。もしかしたらゲストたちとも、コロナ禍の移動制限にともなって、実際に顔を合わせずに音源だけのやりとりだけだった可能性もある。

「リトル・ゴースト」の音響

 私は前作の「リトル・ゴースト」を偏愛している。

 「リトル・ゴースト」は、その前の3枚目「ボイジャー」ともサウンドは異なっていた。「ボイジャー」では打ち込み(便宜上こう書く)よりも生楽器の比率の方が多く聞こえる印象だったが、「リトル・ゴースト」では打ち込みを主体とした曲がぐっと増えていた。

 そして、何よりその打ち込みの電子音を美しく響かせ、生楽器と同等の存在感が与えられていた。電子音と生楽器が緻密に組み込まれた、一反の織物のようなサウンドが展開されるのだ。

 たとえば3曲目の『The Other Side』。導入を務めたウクレレが持続音としてバックグラウンドに流れながら、次第に音数を増してシンセ、ピアノ、ベース、ボーカルが絡み合う。チェンバーポップのように始まりながら、ピアノ・ジャズのような展開で曲が閉められる。本アルバムを物語るような楽曲だ。

 それはソウルマナーが強い、6曲目の『Everything I need』や11曲目の『Come over』でも同様。力強いシンセベースや打ち込みのドラムが楽曲を引っ張るのだが、リズム偏重にはならない。サックスやローズの音が加わっていき、音響的な広がりをみせる。

 とにかく全編通して、展開されるサウンドステージが広々として、自由闊達だ。メンバー自らが施したミックスの賜物だろう。敷き詰められたサウンドの織物が、左右のスピーカーから飛び出していく。それは4曲目の『Sweet Love』や13曲目『Whistling』に顕著だ。ムーンチャイルドのお家芸的なアンバーのボーカルを重ねた声も、楽器のひとつとして軽々と響いている。

 シンプルに言ってしまえば、音がいい。見通しがよく、楽曲ごとに配置された音楽の仕組みがよくわかる。オーディオ的な評価で、演奏者の姿が見える、という言われ方をする。録音、ミックスともによく練られた場合、左右のスピーカーの間にバンドが立ち現れるのだ。
 「リトル・ゴースト」は、打ち込みと生楽器の録音を極めて密室的に行なっている作品だった。だからスタジオの空気感を感じたり、楽器の鳴りそのものを再生するものではない。そういう意味ではオーディオマニアからは嫌われそうなサウンドかもしれない。
 しかし、まるでサウンド・ステージから直接電子音が伸びて、そこに見えるかのような音がする。立体的で、平板なところがまったくない。ジェームス・ブレイクが1枚目で作ったサウンドにも驚嘆したが、それとも異なる音響アンサンブルが生まれている作品だ。

「リトル・ゴースト」の立ち位置

 声も、楽器も、電子音も区別、差別しない。等価の楽音として、楽曲の成立に貢献させる。ゆえに、一音たりとも疎かにならず、美しい響きを放つ。別の言い方をすれば、「生楽器だから」「電子音だから」という、価値付や意味付けをしていない。それが「リトル・ゴースト」でムーンチャイルドが達成したことなのではないだろうか。

 私が「リトル・ゴースト」を特別だと言いたい理由はそこにある。ここまで透徹した作品は滅多に出会えるものではない。音の粒立ちのよさは、もちろん、優れたマスタリングの賜物でもあるだろう。「スターフルーツ」を聴くことで、改めて前作の特異性を感じたのだ。「スターフルーツ」のことをムーンチャイルドに取材できるジャーナリストの方には、ぜひ制作環境の違いについても質問してもらいたい。

 こうした感性は、それぞれがマルチ楽器奏者であるから生まれたのかもしれない。ムーンチャイルドをR&Bバンドとするか、ジャズ・バンドとするかという議論は不毛なのだが、「リトル・ゴースト」の一音一音の美しさは「ヴァーチュオーゾミュージックとしてのジャズの解体」という言葉を私に思いつかせた。
 ロバート・グラスパーが3まで来た「ブラック・レディオ」シリーズでやっていることも、その試みではあると思うのだが、やはり彼はピアニスト/鍵盤奏者として一流であるし、その上での楽曲構成となっているだろう。ムーンチャイルドは、強いて言えばアンバーの声がそれに相当するのかもしれない(グループのシグネチュア・サウンド)。だからライヴでもスタジオ盤との遜色は感じないのだろう。しかし、それが「縛り」にななっておらず、よりフリーに感じるのだった。

 また、デジタル領域にあって「音」だけは、作られた「データ」を全身で体感できる音というものは、電気増幅だろうが電子音だろうが、すべては放たれた瞬間に空気を媒介とするアコースティックな存在に変換される。そうやって実際に音波に変化されてスピーカーから放出される現象は、「感覚」という端末を通した脳内プロセスだけで終わるものではないのだ。すなわち、美的レベル・体感レベルでの芸術表現であり、そこに大きな意味がある。
 「リトル・ゴースト」の音響の美しさは、そうした沃野が目の前に開けてもいたはずだ、と思っている。


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