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瀧くんはなぜ三葉の手のひらに「すきだ」と書いたのか? - 忘却に抗う祈りの物語としての「君の名は。」 -

こんにちは。私はじゅぺといいます。ふだんはTwitterで映画の感想や考察をつぶやいています。まとまった文章を書くときははてなブログを使っているのですが、もうすこしカジュアルに映画に関するあれこれを残せないかと思い、noteにも手を出してみました。飽きっぽい性格のでいつまで続くかわかりませんが、ときどき投稿するつもりです。どうぞ、よろしくお願いします。

note初投稿に選んだのは「君の名は。」です。本作は興行収入250億円という快挙を成し遂げ、新海監督を一気に「ポスト宮崎駿」の筆頭候補にまで押し上げました。評判に違わぬ大傑作だと思います。私も大好きな作品です。すばらしい点は挙げればきりがないし、さんざん語り尽くされたテーマだと思うので、あえて各要素に触れることはしません。今回、この記事で書きたいのは、結局「君の名は。」は何を描いていたのか?ということです。

「君の名は。」って、じつは誤解されたまま批判されやすい映画だと思っています。それも仕方ない部分はあるんですよね。あえて過密気味かつ前のめりに情報が展開される上に、肝となる「入れ替わり」現象の設定にあいまいな箇所が残されているため、混乱を招きやすい作りになっています。だから「テンポの速さについていけない」とか「難しい」なんて感想はよく耳にしました。たしかに1回の鑑賞では処理しきれないだけの情報量がこの映画にはあります。また、女性からは「女の子の描き方が気持ち悪い」というリアクションも見られました。まあ、これも分からなくはないです。口噛み酒とか、正直引きますし。
ただ、「タイムスリップで災害をなかったことにしている。けしからん!」という批判にたいしては、そうじゃないよと言いたいのです。感じ方は人それぞれなので否定はできないものですが、これについては自信を持って反論できます。この映画はタイムスリップを扱うことで、むしろ逆説的に時空の不可逆性を強く語っています。新海監督は「君の名は。」をそういう安易な慰撫のフィクションにはしていないんです。じゃあいったいどういう話なのか。僕は、ただひたすらに「想像力と、忘却への抵抗」物語なのだと思っています。

「君の名は。」のあらすじを一言で表すと「夢で出会った男女が、過去にさかのぼってひとつの町を災害から救い、現実の世界で再開するお話」です。前半はカルチャーギャップを生かしたベーシックな高校生男女のロマンティックコメディですが、中盤の転調パートでは、ふたりの「入れ替わり」が古代から続く神事と結びついた超自然的な力によってもたらされたものであることが明かされると同時に、ティアマト彗星によって三葉はすでに死亡していたという真実が突きつけられます。そして、終盤は時空を超えた愛による、無数の命の救済が描かれます。
「僕」と「彼女」と「世界」の運命は分かち難く結びついていて、「彼女」を救うことがそのまま「世界」のあり方を変えてしまう…というプロットは、なんども繰り返されてきた「セカイ系」の類型ですが、ここに5年前の東日本大震災の生々しい記憶を結びつけることによって、唯一無二の物語を生み出しているのです。

ジャンル分けの方法はいろいろあると思いますが、僕はこの映画を「ボーイミーツガール」と「ポスト震災」の二要素に分解して捉えています。また、この二つを橋渡しするファンタジーが時空の分断であり、「彼岸」と「此岸」という超えがたい境界です。これらの要素を貫くひとつの太い柱が「想像力と、忘却への抵抗」なのです。そして、ここには「刹那」と「時間の不可逆性」の対比、「形式」と「実質」の対立があります。以下、もう少し噛み砕いて読んでいきましょう。

まず「ボーイミーツガール」から考えてみます。「君の名は。」といえば、やはり「夢の中で入れ替わる」設定ですよね。瀧くんと三葉ちゃんは身体を共有することはできても、じっさいに会うことはできません。スマホのメモだったり、ノートの落書きからでしかコミュニケーションを取ることができないのです。作中においてふたりがまともに会話しているのは、糸守のクレーターの上での黄昏時の一瞬だけなんですよね。あとは全部「時間差」のコミュニケーションによってふたりの関係は成り立っています。しかし、相手の身体も、声も、生活も、すべてを知り尽くしています。ある意味、ふたりで一緒にいるよりも濃密な時間を過ごしているのです。冒頭の雪ちゃん先生の板書が伏線になっていますが、ふたりはともに相手の時間を過ごすことによって「片割れ」になっていきます。すなわち「僕」は「君」であり、「君」は「僕」だということです。お互いがお互いの一部になっていく、その過程を「前前前世」にのせてリズミカルに紡ぐことで、瀧くんと三葉ちゃんの距離がぐっと縮まっていく様子を、非常に丁寧かつテンポよく描いていますが、この関係の中で育まれていくのが「想像力」です。「想像力」とは、自分以外のひとの感情や物事を自分のことのように考えることであり、自分と他者の距離を縮めようとする営みとそれを支える力のことだと思います。瀧くんと三葉ちゃんは、もはや直接「他者」になることで、他者を内面化していくのです。これがひとつめの「想像力」です。

で、中盤の大仕掛けによって、本当は瀧くんと三葉ちゃんのあいだには3年の時間差があったこと、三葉ちゃんはあのお祭りの日に糸守に落下したティアマト彗星によって町ごと粉々に消え去ってしまったことが判明します。この事実を知り、瀧くんと僕たち観客は言いようもない喪失感に襲われます。自分の身体の半分がなくなった感覚に陥るのです。しかも、彼女と過ごした日々の記録は、風化した石のようにぽろぽろと崩れていきます。さらに追い打ちをかけるように、口噛み酒を飲み、やっとのことで出会えた三葉の名前を、瀧くんは忘れてしまいます。きれいさっぱり。たしかに好きな人はいたはずなのに、誰だったか思い出せないのです。ここにひとつめの「忘却」があります。自分の「片割れ」、すなわち分身ですらあった彼女の名前を思い出せない、忘れたくないのにどんどん記憶が遠くへ逃げてしまう…。結局、数年後の東京で偶然の再開を果たすまで、瀧くんと三葉ちゃんがお互いのことを完全に思い出すことはありません。名前も顔も思い出せない、しかし、心の何処かにぽっかりと大きな穴が空いているような、もやもやとした感覚。これが何を意味するのかは、ふたつめの「忘却」について触れたあとに考えましょう。

次に「ポスト震災」について考えます。震災から5年後の2016年にこのような映画がつくられたことはただの偶然ではなく、あの惨劇をいかに消化していくか、ということにアニメーションで真正面から立ち向かう試みと言っていいでしょう。ティアマト彗星は、言ってしまえばそのまま大震災のメタファーです。宮水神社に伝わる舞はかつてこの土地に落ちたティアマト彗星の記憶を伝承しようとした太古の人びとの痛切な願いであり、東北の海岸に立っていたという「この先に家を立てるべからず」の石碑を彷彿とさせますし、数千年に一度という彗星の周期性は、東日本大震災と同規模の大地震が平安時代の記録に残っている(貞観地震)ことからヒントを得ていると思われます。
そして最も重要なのが、宮水神社の舞も、東北の海岸の石碑も、その意味は失われ、形だけが残っているということです。宮水神社の舞はマユゴロウの大火によって蔵ごと古文書が燃えてしまい、意味もわからないまま踊りの形式だけが代々宮水家によって受け継がれていました。津波被害を伝える石碑はその存在自体が忘れ去られ、なにも知らずに石碑の下に住んでいた人たちは、大変な被害に遭われることになってしまいました。ここにふたつめの「忘却」があります。
人類の歴史は同じことの繰り返しであり、言い換えれば「忘却」との戦いでもありました。はるか昔、文字のない時代から人類は生活を営み、生命の糸を紡いでいきました。そのバトンは組紐のように複雑に絡み合いながら、脈々と現代まで続いています。当然、その長い歴史のあいだにたくさんの悲劇がありました。人間の力ではどうにもならない理不尽な天変地異や、醜い争いの果ての戦争…。変えることのできない運命に直面したとき、人類は二度と同じことを繰り返さないよう、宗教的な儀式や神話、石碑から日記、文学など、さまざまな形で後代に悲しみの記録を残してきました。しかし、時間がたつに連れて、それらは忘れ去られていきます。人は完ぺきな生き物ではないので、自分で痛い目を見ない限り、それを切実なものとして、真実としては理解できないのです。「忘却」の結果、人類は同じ惨劇を繰り返してきました。

でも、だからといって諦めていいのか。ここで自分と他者をブリッジするために必要なのが「想像力」です。数百年前、名前も顔も残っていない無数の人びとが、突然の悲劇によって命を落としたり、家族や友人を失ってとてつもない絶望に打ちひしがれていたこと。その頃の人びとの悲しみの声はいまや跡形もなく消え去ってしまったし、いまや知る手段もないけれど、たしかにそのとき、2019年の私たちと変わらない普遍的な感情を彼らは抱いていたはずです。たとえそれが目に見える形で残っていなかったとしても、そっと耳を傾け、心で感じ、想像することはできると思います。8年前、東日本一体を大地震が襲い、たくさんの家が流され、おびただしい数の人が亡くなりました。その事実をなくすことはできません。時間の流れは不可逆だからです。僕たちにできるのは、その事実を絶対に忘れないことであり、同じ悲劇に遭う人がこれ以上いないようにと祈ることであり、後世に願いを伝えていくことなのだと思います。

夢の中で入れ替わることで「僕」と「君」の境界線が溶解し、他者への「想像力」を獲得した瀧くんと三葉ちゃんは、「忘れちゃいけない人」と「忘れちゃいけないこと」のために戦います。ふたりが糸守の住民を救えたのは、タイムスリップして時間の流れをリセットできたからではありません。時間は不可逆だし、糸守の町そのものは消滅しています。名前も顔も思い出せない「忘れちゃいけない人」のために、「忘却」=「時間の流れ」=「運命」に「抗おうとした」からです。たとえ指のすきまから記憶がこぼれ落ちようとも、いまこの瞬間の気持ちをぜったいに手放さないんだと抵抗したからこそ、彼らは勝てたのです。すなわち「忘れちゃいけないこと」はけっして相手の名前や顔ではなく、「すきだ」という気持ちなのです。だから、瀧くんは三葉ちゃんの手のひらに「すきだ」と書かなければならなかったのだと思います。本当に大事なのは目に見える「形式」ではなく「実質」です。そして、時間の流れが不可逆だからこそ、刹那の輝きは手放した瞬間消え去ってしまうのであり、尊いのだと思います。

「君の名は。」は、自我の殻に閉じこもりがちな思春期において他者と交わることの喜び、恋することの楽しさと、ひとつとして同じもののない一瞬一瞬の輝きを描きつつ、人類が経験してきた数々の惨劇に思いを寄せ、「忘却」に抗おうとする姿勢を強く貫いた作品と言えます。人類の歴史はなんどもおなじことを繰り返すかもしれないけれど、その時代に生きていた人びとが経験した感情や気持ちは、永遠にその人だけのものです。それは普遍的であると同時に、唯一無二のものでもあるのだと、言うこともできるでしょう。高校生の恋愛と千年に一度の大災害というミクロとマクロを行き来しつつ、一本の太い柱でまとめあげた新海監督の手腕には、ただただ驚嘆するしかありません。本当に奇跡的なバランスで成り立った大傑作だと思います。新海監督の最新作「天気の子」はあえてその均衡を崩すことで新たな境地を切り開いた意欲作なのですが、それについては後日また書くことにして…今回はこのへんで失礼します。

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