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「W. Eugene Smith: A Life in Photography」より

こんにちは(*'ω'*)

カメラ、というよりは写真が好きです。植田正治さんや土門拳さんの白黒写真も好きですし、ベルンハルト・M・シュミッドさんの追う世界中の道や街の風景も好きです。2002年くらいに書店の空きギャラリーで森住卓さんのイラクで撮ってきた写真を展示する催し準備に関わったときは、文化祭のような?高揚感もありました。写真のもつ、伝える力を感じていたんだろうなぁ。


――そういえば、実のところ、私が、写真家として今日あることも一人の日本人から受けた感動から出発していることを話したい。私に影響を与えた日本の写真家に会ったのは17歳のころであると思っている。記憶が薄れて、名前もまた顔も、細かいことを忘れたのは残念だが、ニューヨークの確か63番街にあるYMCAに泊まったときのことだった。日本の旅行者で、写真家が泊まっているというので、偶然に紹介された。背の高い人で、ロビーで会っただけだが、とくに印象の深かったのは、それまで多少とも、自分は自分なりに印画をつくって、写真家としていささかの自信を持っていたわけだ。

ところが、この日本の写真家に作品を見せられてびっくりした。それは、自分の写真と比較して驚くべき感動にみちたものだった。それ以来、写真にとりつかれ、自分の心が決まったのである。感動させられたその日本人も、翌日にはどこかに行ってしまってそのままになった。

確か1935年の2月22日から6月までの間であったと思う。わかることなら、その人に会いたいと思っている。

これらの写真は、スペインのあるわびしい一村落を描いた、写真による報告である。私は、陳腐な歴史的興味や、また少しも真のスペインを代表していない繁華な大都市には見向きもしなかった。私は観光客が見て回るような通り一遍のものから離れて、本当のスペインの姿を見つけるべきだと考えた。

真のスペインとは、貧困の底に沈みながらも、人々が恵みの少ない大地から、つましい生活の糧を得るために、のろのろと、だが、たゆまず働き続けているというような村々から成り立っている。

数世紀に亘る忘却と搾取と、更に現在の強大な権力政治が、いまのスペイン人の上に重々しくのしかかっている。しかも、彼らは全体として見るとき、決して打ちのめされてはいないのである。人々は日中は働き、日没とともに眠る。そして、現世の生をたのみつつ、死の中から逃れようと、パンを求めて営々と働いているのである。

私たちが村に着いた翌日、一人の婆さんが私たちについてきて、いろんな話をしたが、その中でこんなことをいった。「わたしら、お前さん方が何商売だか知らないけど、誰かがアメリカの新聞記者だろうといってるだ。もし本当にそうなら、お前さん方が見た通りのことを書いてもらいたいもんだね」。

これは、政府のお役人たちの態度や希望とはまったく違ったものであった。

写真はせいぜい小さな声にすぎないが、ときたま――ほんのときたま――一枚の写真、あるいは、ひと組の写真がわれわれの意識を呼び覚ますことができる。写真を見る人間によるところが大きいが、ときには写真が、思考への触媒となるのに充分な感情を呼び起こすことができる。われわれのうちあるもの――たぶん少なからぬもの――は影響を受け、道理に心をかたむけ、誤りを正す方法を見つけるだろう。そして、ひとつの病いの治癒の探求に必要な献身へと奮いたつことさえあるだろう。そうでないものも、たぶん、われわれ自身の生活からは遠い存在である人びとをずっとよく理解し、共感するだろう。写真は小さな声だ。私の生活の重要な声である。それが唯一というわけではないが。私は写真を信じている。もし充分に熟成されていれば、写真はときには物を言う。それが私――そしてアイリーン――が水俣で写真をとる理由である。

ユージン・スミス (W. Eugene Smith)

『ユージン・スミス写真集』(W. Eugene Smith: A Life in Photography、株式会社クレヴィス、2017年)より


ニューヨークのYMCAで出会った日本人写真家って誰だったのか、気になります。

私はむかし、ブリキの箱に穴の開いたアルミ缶の破片を設置して、ピンホールカメラをつくり、実家のお風呂場を暗室にして現像してみたことがあります。写真の仕組みがわかりました。だいたい30秒ほどピンホールから光が入るようにして、定点設置して、動きのあるようなものも撮ってみたことがあります。写真作品としてはたいして面白いものもなく、なぜあれほど執着していたか自分でもわからないのですが、あれも一種の「写真にとりつかれ」た状態と言っていいかな!?と思います。

ジョニー・デップ氏がユージン・スミス役の伝記映画「MINAMATA ミナマタ」はまだ観ていないのですけど、写真を見ていると、人間愛溢れる眼差しと人間の生にとって大切なものを破壊する巨大権力への冷徹な眼差しの両方を感じとることができます。巷の労働者が作業に打ち込んでいる姿や、シュバイツァー博士の風に髪を乱してうつむく、英雄として描かれてない姿が印象的です。

スマートフォンを持つようになって、写真を撮ること自体はものすごく簡単になりましたが、まだ「これだ!」と思うような写真を撮れたことはありません。私の場合、まばたきするのももったいないという勢いで記憶に焼き付けるのがいいのかもなぁ…(´ー`)

Photography appeals to our hearts sometimes strongly, I want to respond it ☆

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