共生への知恵♪『最強のふたり』から

こんにちは(*‘ω‘ *)

『最強のふたり』(2011年、フランス映画)は、実話が元となっていて、2019年にはアメリカでもリメイク版が公開されたそうです。だいぶ前に観たけど、この機会にもう一回観てみようかなという映画をお探しなら、おすすめの一本です…!


パリ郊外の劣悪な環境の団地に住む若者たちが、いったいどんな暮らしをしていたのか。そのことを垣間見ることができる映画があります。日本でも評判の映画でしたのでご覧になった方もいると思います。『最強のふたり』(原題:Intouchables)という作品です。この作品の主人公、オマル・シー演じるドリスが住んでいるのが、まさにパリの北から東の郊外に広がる公共住宅群です。

麻薬の売人たちが行き来するなか、必死に低賃金の清掃業で子どもたちを育てるドリスの母親。悪い連中の仲間に入ろうとする弟を引き止めるドリス。

映画は、フランスの「スラム街」に住むアフリカ出身の若者と、首から下を動かせないという障がいのある大富豪との心の交流を描いています。ただ、あの地区は、スラムではありません。低所得層向けに行政が用意した公共住宅群です。

私たちが見ていないだけなのですが、パリの空の玄関、シャルル・ド・ゴール空港から市内に向かう鉄道RERのB線は、この「郊外」を通っています。一度、各駅停車でパリ北駅まで乗ればわかります。乗客に白人のフランス人はほとんどいません。

もう少し、この映画の話をさせてください。ドリスという人、映画の中では、全然、イスラム教徒らしくありません。お祈りなどはしませんし、それどころか、雇い主にマリファナを勧めたり、ナンパしたり、泥棒したりと、およそイスラム教徒としては、やってはいけないことをします。

しかし、雇い主であるフィリップへの接し方、人を見下すフィリップの養女への怒り方、弟、妹、母親とぶつかりながらも、優しさを秘める接し方、どれをとってもドリスの気持ちというのは、ものすごくイスラム的なのです。

敬虔なイスラム教徒がこの映画を観たら、こんな生き方はイスラムに従ってはいない、と怒るかもしれません。しかし、イスラム教徒ではない私の眼から見ると、彼の行動はイスラム的に見えます。

突き詰めて言えば、それは、分け隔てをしない他者への接し方です。人と人との間に「線を引かない」態度と言ってもよいでしょう。イスラムでは、本当に、神の下にある人間は平等。人間どうしの間に身分の差をいうものを認めません。人種、民族、出身国などによって線を引くことはありません。このことは、イスラム教徒でない私にとって、イスラムの人間観、社会観のなかでもっとも尊敬すべき特徴です。

映画のモチーフとしては、そういうドリスのフィリップに対する接し方が、気難しいフィリップの心を溶かしていくように描かれていますが、それこそ、イスラムそのものであると私には思えるのです。そして、フィリップ自身が、だんだんと大富豪の雇い主としてでもなく、移民やイスラム教徒を腹の底では蔑むフランス人的にでもなく、ひとりの人間としてドリスとつきあうようになっていきます。

ドリスは、相手を障がい者だから、大富豪だから、と人間に線を引いて接しようとはしません。もちろん、郊外の移民の出身ですから、白人のフランス人への反感はドリスにもあります。しかし、本質的に、他の人に対して「差別」や「区別」をするという観念がないのです。

映画の途中で、ドリスが自分の家族は複雑なんだとフィリップに打ち明けます。名前も、仲間がつけたイドリスから“イ”が落ちたからドリスだけど、本当の名前はバサリという別の名だとも。ちなみに、イドリスというのは、イスラム教徒の名前によくありますが、古代の預言者、方舟(はこぶね)で有名なノアの祖先にあたる人です。英語だとイノックになります。ヨーロッパ風の名前、ドリスが実はイドリスだったと明かされるシーンに、ちょっと驚きました。

【ちょっと、COFFEE BREAK ♪】

(つづき)

フランスの国家理念は自由・平等・博愛(同胞愛)といいますが、そのもとにあるのは、強烈な国家主義です。ですから、何かというと戦争を起こします。北アフリカを植民地支配し、そこから独立をめざしたアルジェリアでも戦争を起こします。最近では、アメリカ主導のイラク戦争には乗りませんでしたが、西アフリカのマリでイスラム過激派が暴れだすと、即座に派兵しています。

いくら自分の国で、自由・平等・博愛(同胞愛)を説いても、外ではフランスという国家の権益を守るためなら何でもする。フランスという国に、身も心もささげるなら愛してやるし、平等に扱ってやると言いながら、陰ではいくらでも差別をする。

イスラム教徒移民の目を通してフランスを見てきた私は、こんなことをつづけていると、いつかイスラム教徒の側が暴力でフランスに歯向かうことを予想していました。

先日、大学の教員としてフランス研究をしている昔の学生から「先生は二十年前から同じことを言っていましたよね」と言われました。進歩のないことですが、状況は年を追うごとに悪くなっていったので、同じことを言いつづけてきました。

二〇一五年、「シャルリー・エブド」に対する襲撃事件とユダヤ系スーパーマーケットへの襲撃事件、それにパリでの同時多発テロ事件が起きた今、どうして暴力をとめることができなかったのかを考えるとつらいです。決して暴力を肯定することなどできない。しかし、問題はいじめと似ています。どんなに理不尽にいじめても、相手は暴力で応答しないと思い込んでいたなら、あまりに思い上がりがすぎるというものです。

十年ほど前に郊外の若者たちが乱暴狼藉(ろうぜき)をはたらいたときには、まだ、イスラム過激派の影はありませんでした。しかし、すでに郊外には無数のイスラム組織がありました。全部ではないですが、暴動を起こした少年たちのかなりの部分を彼らは吸収したのではないかと思っています。極端なことを言えば、二〇一五年十一月十三日に起きたパリの同時多発テロの首謀者たちというのは、そういう中から出てきた、とも言えるでしょう。

私は確信して言います。

ヨーロッパの市民よ。これ以上の衝突を起こすなかれ。相手は一五億か一六億か、数えることなど不可能だ。これ以上イスラムとの間に衝突を引き起こすと、新しいかたちの世界戦争になりかねない、と。

一刻もはやく、そこに気づいてほしいと説きつづけるだけです。

じゃあ、ヨーロッパが一方的に悪いのかという批判もよく受けます。もちろん、そうではありません。「イスラム国」が悪い、アル・カイダが悪い、イスラム過激派が悪い――それはみなそのとおりです。しかしそれ以上に、イスラム教徒の母国が一番悪いのです。イスラム教徒が安心して暮らし、国家が少しでもイスラム的な公正や正義をおこなっていたら、イスラム教徒はヨーロッパやアメリカには行きませんでした。まして、テロなど起こしませんでした。

けれど、いま世界が直面しているテロや暴力の問題は、軍事力で、空爆すれば解決するのか。それだけはぜったいにありえないと確信しています。あとで少しずつ、話を進めますが、あれだけ寛容で優しい心をもつイスラム教徒が、なぜ、暴力に走ったのかを明らかにしないで、イスラムという宗教が暴力的だからこいうことになった、と言うのは、間違いであり、世界を危機に陥れることになります。

今となっては、欧米諸国の人びとは、総じて頭に血が上っていますから聞き入れてはくれないでしょう。だからこそ、『最強のふたり』をもう一度観てほしい。あの映画には、衝突ではなくて共生を実現するための知恵があふれています。フランスでも興行成績で一、二を争う作品だったのです。人間としてのイスラム教徒を知ることに、何も難しいことなどありません。

内藤正典

『となりのイスラム 世界の3人に1人がイスラム教徒になる時代』(ミシマ社、2016年)より


あとがきのなかで、内藤さんはイスラム教徒ではない立場で対話をつづけてきたイスラム教徒の人たちの姿として以下の五つを挙げています。

①人間が一番えらいと思わない人、②人と人とのあいだに線引きをしない人、③弱い立場の人を助けずにはいられない人、④神の定めたルールの下では存分に生活をエンジョイする人、⑤死後の来世を信じて、楽園(天国)に入れてもらえるように善行を積もうとする人。

西欧経由のめがねを通して見ず、もっとふつうに、市民としての生活のなかで彼らがどういう価値観をもって、どういう行動をする人なのかを知ることが大切だと教えてくれてます。

余談ですが、いまはラマダンの期間らしいです。約ひと月、夜明け前に食事をしたら、次は日没まで飲み食いをしない(妊婦、お年寄り、病人は断食を免除される。)ということですが、どうも体に良いという研究もあるらしいのです。生物は飢えると新陳代謝が進んだり、免疫力が高まったりするという理由。気になる方は「オートファジー」を調べてみるといいかもしれません。(参照:朝日新聞2021/4/28 いちからわかる!)

Get to know a neighbor ☆

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