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資本主義の限界、その先を考える

こんにちは(*'▽')

ガビーン…耳が痛い話です。某昆虫館と某通販会社のコラボ商品、チョウの翅を模したエコバッグ《サナギ型収納ケース付》を知って「なにこれ、欲しい~!(´▽`*)」と目がハートになっていたとき、それは「良心の呵責(かしゃく)から逃れ、現実の危機から目を背けることを許す免罪符として機能する消費行動」じゃん?と、いま読んでいる本に指摘されてしまいました。…たしかに。そうかも。


ドイツの社会学者ウルリッヒ・ブラントとマルクス・ヴィッセンは、グローバル・サウスからの資源やエネルギーの収奪に基づいた先進国のライフスタイルを「帝国的生活様式」(Imperiale Lebensweise)と呼んでいる。

帝国的生活様式とは要するに、グローバル・ノースにおける大量生産・大量消費型の社会のことだ。それは先進国に暮らす私たちにとっては、豊かな生活を実現してくれる。その結果、帝国式生活様式は望ましく、魅力的なものとして受け入れられている。だが、その裏では、グローバル・サウスの地域や社会集団から収奪し、さらには私たちの豊かな生活の代償を押しつける構造が存在するのである。

問題は、このような収奪や代償の転嫁なしには、帝国的生活様式は維持できないということだ。グローバル・サウスの人々の生活条件の悪化は、資本主義の前提条件であり、南北の支配従属関係は、例外的事態ではなく、平常運転なのである。

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こうして帝国的生活様式は、日常の私たちの生活を通じて絶えず再生産される。一方で、その暴力性は遠くの地で発揮されているため、不可視化され続けてきた。

環境危機という言葉を知って、私たちが免罪符的に行うことは、エコバッグを「買う」ことだろう。だが、そのエコバッグすらも、新しいデザインのものが次々と発売される。宣伝に刺激され、また次のものを買ってしまう。そして、免罪符がもたらす満足感のせいで、そのエコバッグが作られる際の遠くの地での人間や自然への暴力には、ますます無関心になる。資本が謀(たばか)るグリーン・ウォッシュに取り込まれるとはそういうことだ。

先進国の人々は単に「転嫁」に対する「無知」を強制されるだけではない。自らの生活をより豊かにしてくれる、帝国的生活様式を望ましいものとして積極的に内面化するようになっていくのである。人々は無知の状態を欲望するようになり、真実を直視することを恐れる。「知らない」から「知りたくない」に変わっていくのだ。

しかし、自分たちがうまくいっているのは、誰かがうまくいっていないからだと私たちは暗に気がついているのではないか。

現代ドイツを代表する哲学者マルクス・ガブリエルが述べているように、その不公正を「自分たちに関係のないことだと、(中略) 見えないようにしてしまう」だけなのだ。直視することに耐えられない、だから「私たちがその不公正を引き起こしている原因だと知っていながら、現在の秩序の維持を暗に欲している」。

こうして、帝国的生活様式は一層強固なものとなり、危機対応は未来へと先延ばしにされていく。それによって、私たち一人ひとりが、この不公正に加担することになる。だが、その報いがついに気候危機として中核部にも忍びよってきている。

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資本主義とは、価値増殖と資本蓄積のために、さらなる市場を絶えず開拓していくシステムである。そして、その過程では、環境への負荷を外部へ転嫁しながら、自然と人間からの収奪を行なってきた。この過程は、マルクスが言うように、「際限のない」運動である。利潤を増やすための経済成長をけっして止めることがないのが、資本主義の本質なのだ。

その際、資本は手段を選ばない。気候変動などの環境危機が深刻化することさえも、資本主義にとっては利潤獲得のチャンスになる。山火事が増えれば、火災保険が売れる。バッタが増えれば、農薬が売れる。ネガティブ・エミッション・テクノロジー(※ 二酸化炭素排出量の削減が難しいなら、大気中から二酸化炭素を除去する技術を開発しようという発想。実現可能性は不確かで、実現しても大きな副作用が予想される。)は、その副作用が地球を蝕むとしても、資本にとっての商機となる。いわゆる惨事便乗型資本主義だ。

このように危機が悪化して苦しむ人々が増えても、資本主義は、最後の最後まで、あらゆる状況に適応する強靭(きょうじん)性を発揮しながら、利潤獲得の機会を見出していくだろう。環境危機を前にしても、資本主義は自ら止まりはしないのだ。

だから、このままいけば、資本主義が地球の表面を徹底的に変えてしまい、人類が生きられない環境になってしまう。それが、「人新世」という時代の終着点である。

それゆえ、無限の経済成長を目指す資本主義に、今、ここで本気で対峙しなくてはならない。私たちの手で資本主義を止めなければ、人類の歴史が終わる。

その際、第二章でも述べたように、気候危機対策は、ひとつの目安として、生活レベルを1970年代後半の水準にまで落とすことを求めている。というと、当時も、資本主義であったのだから、「70年代の資本主義」で、環境危機から脱することができるのではないか、という反論があるかもしれない。

けれども、資本主義はまさに70年代、深刻なシステム危機に陥っていた。この危機を乗り越えるために、新自由主義という政策パッケージが世界的に導入されたのである。そして、新自由主義は、民営化、規制緩和、緊縮政策を推し進め、金融市場や自由貿易を拡大し、グローバル化の端緒を切り拓いた。それが、資本主義延命の唯一の方法だったのだ。

それゆえ、「70年代の資本主義」に戻れるわけもなく、戻ったとしても、資本の自己増殖を目指す資本主義はそこに留まることはできない。その段階で留まって、利潤の追求をやめれば、資本主義はシステム危機に逆戻りしてしまう。だから、やがて同じ道をたどらざるを得ず、結局、環境危機が深まっていく。

だから、環境危機に立ち向かい、経済成長を抑制する唯一の方法は、私たちの手で資本主義を止めて、脱成長型のポスト資本主義に向けて大転換することなのである。

斎藤幸平

『人新世の「資本論」』(集英社新書、2020年)より

【人新世・ひとしんせい】…人類の経済活動が地球に与えた影響があまりに大きいため、ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンは、地質学的に見て、地球は新たな年代に突入したと言い、それを「人新世」(Anthropocene)と名付けた。人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代という意味。


知ると、知る前には戻れなくなります。アボカドの生産国・生産地域の土壌養分や水資源、労働力が搾取されてるのを知ると、むやみやたらにアボカドを求めなくなる。格安デニムの生産地で、化学染料による汚染や加工に大量に要する水資源の枯渇の実態を知ると、むやみやたらにデニムを求めなくなる。無知な消費者でいることがだんだん恥ずかしくなってくる。そうやって、すこしずつ意識が変わってきています。

蔦屋書店を中心としたおしゃれショッピングモール内で、いろいろ絨毯(じゅうたん)をみたときのこと。来店予約をしたらもらえるという、マスキングテープと付箋目当てに出かけました。生命の樹のモチーフや、赤・緑・青系グラデーションなど綺麗で、手触りも良くてうっとり。高価なので目の保養をするだけでした。でも「この大きさで、8人の女性が半年かけて織る」というような説明を聞いているうちに、彼女たちの懐に入る報酬ってすごい少ないよね!?と思い至り、自分が絨毯を織る職人だったとしたら?と想像すると、私には手が届かない価格ながら、けっして高くなく思えました。

つつましく暮らしながら、なお豊かな暮らしをしたい。

水や土壌などの自然環境、電力や交通機関などの社会インフラ、教育や医療などの制度、住居、図書館といったようなものを《コモン・公共財》として自分たちで民主主義的に管理することを目指す。

すごく魅力的に思えます。

著者はカール・マルクスの研究をしていらっしゃいますが、マルクス氏、誤解してました。かつてソ連で実施されたような社会主義を推進していたわけではないんですね。資本主義の限界も予測していたとか。いま見直されている訳がわかります。

簡単に解決策や新たなシステムが見つかるわけではなくても、どうしていったらいいかな?と考えつづけたい、世の中の動向にも注意を払いたい、そう思います。

Keep thinking and do what we can before the planet changes hopelessly ☆

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