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理想郷/楽園/Utopiaを胸に抱いて

こんにちは(*'ω'*)

ふだんは意識しなくても、なにかの手続きや人生上の転機で役所を訪れると、番号札を手にして待っているあいだ、自分のこれまで・いま・これからを改めて自覚することあります。制度に守ってもらっている面もあれば、制度に縛られている部分もあるんだなぁ。


ある朝、突然、国家という仕組みがなくなってしまったら、どうなってしまうだろう。ちょっと想像してみてほしい。

もちろん役所や警察はなくなるし、それに関わるすべての制度(たとえば運転免許とか、医師や弁護士などの国家試験とか、パスポートとか)が意味をなさなくなる。

婚姻届を出す場所もないのだから、「結婚」だってできない…。どうしてか、いまや「結婚」が「婚姻届を出すこと」とイコールになっている。きわめてプライベートな事柄のはずなのに、公的な手続きが不可欠になっている。役所に婚姻届を出して、窓口で「おめでとうございます」とか言われると、それで正式に結婚したような気になる(自分は市役所の前で記念写真まで撮った)。

ぼくらは、結婚したとき、引っ越したとき、子どもが生まれたとき、すべて役所に届けることを強く内面化されている。そうして国民が届け出ることで、はじめて国は国民の実態を把握でき、さまざまな政策を実施できるようになる。

数年前、高齢者の所在不明がさかんに報道されたことがあった。すでに死亡しているのに届け出をせず、年金などを受けとり続ける。そんな事案がいくつも発覚した。これは、国民ひとりひとりが家族の生死や転居についてきちんと自発的に届け出をしないと、戸籍や年金など国の制度がうまく機能しないことを示している。

国家という制度は、かならずしも上からの「権力」によって押しつけられているわけではない。一人ひとりが、意識するしないにかかわらず、日々さまざまな行為でその機能を内側から支えている。

マルクスは、『資本論』のなかで、ある人が王であるのは、他の誰もがその人の臣下として振る舞うからだ、と書いている。みんなが「従う」ことをやめれば、王も、国家も、その力を失う。

もし、誰も婚姻届を出さなくなったら、結婚制度自体が意味をなさなくなるだろう。ほとんど見かけなくなった二千円札のように、国家が決めた制度を使う人がいなければ、その制度は機能しなくなる。

「結婚」が国家の仕組みを前提としはじめたように、誰もがその制度をあたりまえのものとして受容すればするほど、その制度は確固たるものとして、みんなを縛りはじめる。

ぼくらは、こうして「国家」とつながっている。

松村圭一郎

『うしろめたさの人類学』(ミシマ社、2017年) ―国家と「わたし」との距離―より


いまのような戸籍の発明は、むかし土地を治める領主が農民に納税させるためだったと聞いたことがあります。その後、戸籍登録して国家のメンバーということになれば、納税義務を果たしながら、困った状況に陥ったり支援が必要になったときは、プールしている財源からなにかしらの対策を講じてもらう。シンプルにいえば、そうです。相互扶助、互助。なんか、小学生のときの宿題で「税の作文」に書きそうな内容で恐縮ですが…(^^;)

うまく現状にフィットする制度を確立できて、誰もが自分の持ち分と負担にある程度の納得をできて、それぞれがそれぞれのやり方で働いたり遊びに出かけたりできたら、理想郷(ユートピア)が出現しそうです。松村さんが思い描く理想郷は如何に&以下に。


「よりよい社会/世界があるとしたら、どんな場所なのか。

努力や能力が報われる一方で、努力や能力が足りなくても穏やかな生活が送れる。

一部の人だけが特権的な生活を独占することなく、一部の人だけが不当な境遇を強いられることもない。

誰もが好きなこと、やりたいことができる。でも、みんなが少しずつ嫌なこと、負担になることも分けあっている。

つまり、ひと言で言えば、『公平=フェア』な場なのだと思う。

社会へのポジティブな思いが醸成され、その実現が支援される。ネガティブな気持ちにも、声をあげ、耳が傾けられる機会がある。多様な生き方や価値観が許され、それぞれが違った役割を担える。同時に、その差異をつなげ、共感し、調停する仕組みもつくられている。」


こんな世界に住めたらいいな! もしくは、生きているあいだにこんな社会が実現したらいいな! うふふ(*´艸`*)

Do your best for a Utopia that you desire ☆

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