悲しみは…

こんにちは(´ー`)

悲しみや苦しみを避けることができたら、はたしてそれが幸せでしょうか?悲しみや苦しみを感じるということは、生きている証と言えないでしょうか?


問題を否定することも相手を元気づけることもせず、悲しみは人生の決まりごとのひとつなのだと語りかけてくる。作品の並外れたスケールと堂々としたたたずまいは、悲しみは正常だとの宣言だ。

(略)そうした気持ちを閉じ込めておくのではなく、人類に共通するものとして人生の中心に据えようというのがこの作品だ。

さらに重要なのが、苦しみが偉大なものとして描かれている点だ。苦しみの詳細や個々の原因には立ち入らず、ひたすらその気高さと普遍性を主張する様子は、「悲しいということは、尊い経験に参加しているということだ。作品であるこの私は、悲しみにささげられている。君の喪失感や幻滅、かなえられたかった望み、自己嫌悪は偉大さへとつながる道なのだ。悲しみを無視したり、投げ出したりしてはいけない」と話しかけてくるかのようだ。

非常に多くのアート作品はアーティストの悲しみの「昇華」であり、鑑賞者の悲しみも作品を鑑賞することによって「昇華」する。昇華とはもともと化学用語で、固体が液体になることなく直接気体に変容することを意味する。アートにおける昇華とは心理的変容で、何の変哲もない経験が高尚で洗練されたものに変わることを指す。まさに悲しみがアートと出会ったときに起こる現象だ。

自分ひとりが苦しんでいると思うと、悲しみは悪化する。悪いことが起こるのは不運だからとか、自分の不徳のなせる業(わざ)だとか考えがちだが、そうなると悲しみは自業自得ということになり、荘厳さが失われてしまう。最悪の経験にだって名誉は必要だ。そしてアートは、最悪の経験が社会の中で自己表現するための手段なのだ。

アラン・ド・ボトン/ジョン・アームストロング著『美術は魂に語りかける』(ダコスタ吉村花子訳、河出書房新社、2019年、原題:「Art as Therapy」)より


誰かが紡いだ歌をうたい、誰かの切迫したぎりぎりの演技を目にし、踊ってカラダで表現し、夕空の雲のグラデーションにため息する。同じ空の下で誰かも似た悲しみを抱えているのか、時代を超えて同じような苦しみに身悶えた人がいたのか。悲しみや苦しみは、顔も声も知らない誰かと繋がることのできるものだったのか。

Durch Leiden Freude ☆

(苦悩を突き抜けて歓喜へいたれ!― Ludwig van Beethoven)

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