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誠を極める、とは?

こんにちは(*'▽')

街行く人のようすが変わっています。年の瀬&お正月が近いかんじ。
先日の世界ふしぎ発見!で、湘南乃風の SHOCK EYE さんが自身のライフワークである神社巡りを紹介されてました。頻繁に参拝していると、願い事ばかりしている自分に嫌気がさして、いつからか感謝するように変わり、そうすると日々の事柄の見え方も変わってくるそうです。神様には荒魂(あらみたま?)という厳しい面もあるらしく、それは本殿と離れた場所に祀られていることが多いそうで、そこでの参拝は自然と背筋が伸びてあらたまった気持ちで臨むそうです。ほわ~!!


 年始のニュースで気になるのが初詣の人出です。
 初詣の人出と景気とは、ゆるやかな相関関係にあるといわれています。「苦しいときの神頼み」というくらいで、景気が悪いときに初詣にい行く人が多いのは当たり前じゃないかとは思うものの、それだけではなくその年の、少なくとも上半期の景気予想の指標に使われたりするのは面白いところです。
 消費を左右するのは人の心。統計がいくら「景気は上向いている」と示しても、その実感がなければ消費は冷え込みます。そのような、人々の景気に対する率直な感覚が反映されやすいのが初詣の参拝者数なのです。
 ところで、初詣ではただお参りしてもダメだということを第二講に書きました。そのときに紹介した菅原道真の作とされる和歌を、もう一度ここで紹介しておきましょう。

 心だに誠の道にかなひなば
 祈らずとても神や守らん

 心が「誠」の道にかなっていれば、祈らなくても神様は守ってくれる、という和歌です。
 ではその「誠」ってどういうことなのか。今回はこの「誠」について、中国古典の『中庸』を中心にお話をしていきましょう。「誠」を極めることには、初詣に行くよりも大きなご利益があるはずです。(略)
 あ、でも『中庸』の内容を紹介する前にちょっと寄り道して、とあるマタギの方の話から始めます。
 白神山地には、今年で78歳になる工藤光治さんというマタギの方がいます。その方と山を歩いたときのことです。
 予定の行路を歩き終えて駐車場に戻ると、その奥にも魅力的な林がありました。工藤さんに「あちらに入ると、どのくらいかかりますか」と尋ねたら、1時間くらいとのことだったので、「それならもう少し歩きましょう」と、その林に入ることになりました。
 ところが歩き始めて、ほんの2、3分経ったころ、工藤さんが「まずい、戻りましょう」というのです。空は晴天だし、風も穏やか。まずい要素なんてなにもないと思ったのですが、彼のあとを追って小走りに駐車場に戻り、車のなかに入った途端に沛然はいぜんたる驟雨しゅううが……。
 背筋が寒くなりました。
 雨の激しさにではありません。なんの兆候も見えない空に豪雨の到来を予知した工藤さんに、です。
「近ごろのマタギはダメだ」と工藤さんはいいます。それは「熊を見てから撃つからだ」そうなのです。それでは遅い。熊が現れたときには、もう撃っていなければ遅い。熊を見る前に撃つなんて、鉄砲すら持ったことのないわたしたち素人からするとなにをいっているのか全然わかりません。しかし、工藤さんと山を歩くと、それを実感します。
 わたしたちがロープを伝わらなければ下りることができないような下り道を、工藤さんは「そこ、足を折る人がいるから気をつけて」などとニコニコ笑いながら、見えない足場に足をかけつつ平坦な道を歩くように下りていきます。なんの変哲もない(とわたしたちには見える)一本の木の前でふと立ち止まり、「そろそろこの裏にキノコが出ているはずだ」と裏に回ってみると、顔を出したばかりのキノコがあったりして、熟知しているというのとは次元の違う山との接しかたが、工藤さんにはあるのです。
 そのとき思いだしたのは松尾芭蕉の言葉でした。
 句を作るときに芭蕉は「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」といい、それはそのものに入ること、すなわち一体化することであると、芭蕉から直接教えを受けた弟子の服部土芳どほうが、俳諧論『三冊子さんぞうし』に書き留めています。
 工藤さんの山歩きは、工藤さんが山を歩いているのではない。山という一個の有機体の体内を工藤さんが巡っているというか、工藤さんの体内が山そのものになっている。山と一体化しているからこそ、山の天気の急変を予知し、視界に入っていない熊の動きを感知することができるのでしょう。
 そして、じつはこれこそが「誠」の極意なのです。
 「誠」という言葉自体は人口に膾炙かいしゃし(※広く世人に好まれ、話題に上って知れわたること)すぎていて、わたしたちはすでにそれについて知っているつもりになっています。しかしその奥深くにある、本当の意味のすごさはあまり知られていません。
 新渡戸稲造にとべいなぞうは著書『武士道』で、「孔子は『中庸』において誠をたっとび、これに超自然力を賦与ふよしてほとんど神と同視した」と書いています。さらに新渡戸は、「彼(孔子)はさらに誠の博厚にして悠久たる性質、動かずして変化を作り、無為にして目的を達成する力について、滔々とうとうとのべている」と続けます。
 「誠」には神と同視されるほどの超自然力があり、それは動かすことなく変化を生みだし、無為にして目的を達成する力があるというのです。
 変化を生みだす力、それが「誠」のもつ第一の超自然力だからこそ、幕末の新撰組は「至誠しせい」を旗印にしました。すなわち彼らは、誠を極めれば天下国家は変わると信じていましたし、吉田松陰は「変化しないのは自分の誠が足りないからだ」と自省しました。
 わたしたちは、人を変えようと思ったら相手を説得したり、命令したりしますし、社会を変えようと思ったら、たとえばデモなどの行動を起こす人もいます。しかし『中庸』では、変化を起こそうとするならば「誠を極めよ」というのです。
 誠を極めれば、なぜ変化を起こすことができるのか。それを考えるために、まずは「誠」という文字に注目してみましょう。
 じつは孔子の時代には「誠」という漢字はまだありませんでした。あったのはこの字から偏である「言」を外した「成」です。
 では「成」とはなにか。
「成」の古代文字を見てみると、「ほこ(武器)」に、呪飾じゅしょくである「棒」を加えた形であることがわかります。それをひとつ加えることによって、ただの武器である戈が聖具として完成するのです。
 すなわち「成」とは「聖なる完成」が原義です。人間でいえば、その人の本来もっている「性」を十全に引きだす、すなわち本性を完成させることをいいます。
 誠は「動かずして変化を作る」と書きましたが、これが「至誠」によって「人を変える」方法論です。「思うがままに相手を操る悪魔の人心操縦術」などでは決してないのです。
「なぁんだ」なんて思わないでください。自分の周りにいる人がみんな「誠」を実現した、いい人だったらとても楽でしょ。そのような人間関係を構築しようというのが「誠」の人間変容法です。

               (中略)

 この『中庸』版マインドフルネスでは、五つのキーワードを提案します。
「博」「審」「慎」「明」「篤」です。

               (中略)

 さて、このような日々を繰り返しつつ「誠」に近づくと、自分の「性」や心を尽くすことができるようになります。
 心を尽くすということについて、吉田松陰は「15貫目をを持つ力のあるものは15貫目を持ち、20貫目を持つ力のある者は20貫目を持つことが力を尽くすことである」といいます。自分の持てる限りの心力を、惜しむことなくめいっぱい使う。それが「心を尽くす」ことであり、そして、それを念頭にまずは一事、そして一日から始めよ、そうすればその「性」を知ることができるというのです。
 これは、いわゆる自分探しとはぜんぜん違いますよね。この五つのキーワードの教えについて心を尽くして行えば、自分の性を尽くすことができる。そして、自分の性を尽くした人だけが、ほかの人の性を尽くす手助けができるといいます。
 これが『中庸』でいう人を変える方法です。
 そしてさらに、それは人にとどまらず、物や社会などの性を尽くすこともできる。これが「至誠」による社会変革です。
 新撰組の至誠は少し違っていたかもしれませんね。そして、それができたとき、はじめて「天地人」の三体の一員になれるのです。
 そのとき、その人と他者や社会との境界はなくなっています。マタギの工藤さんが山と一体化し、松尾芭蕉が松や竹と一体化したように、その人も何かと一体化しているのです。芭蕉はこの境地を「風雅の誠」と名づけました。
 さて、『中庸』に以下の一文があります。

至誠の道は、以て前知ぜんちすべし。国家まさおこらんとすれば、必ず禎祥ていしょうあり。国家将に亡びんとすれば、必ず妖孽ようげつあり。蓍亀しきあらわれ、四体に動く。

「至誠」、すなわち誠を極めれば、未来予知もできる。国家の興亡には必ず前兆があり、それは占いに表れることもあれば、自分の身体に現れることもある。他者や社会と一体化していれば、その変化は自分の「四体(両手・両足)」に現れるのでしょう。
 そうなれば、もう占いも神頼みも必要なくなります。その境地が、冒頭に掲げた「心だに誠の道にかなひなば祈らずとても神や守らん」です。
 新年によく一年の抱負を考えたりしますが、そんなときには『中庸』の五つのキーワードを念頭に置き、「誠」への道を歩む一歩を踏みだしてみてはいかがでしょうか。

安田登 (能楽師)

『野の古典』(紀伊國屋書店、2021年)より


そういえば、「僕は猟師になった」というドキュメンタリー映画を観たとき、京都の罠猟師である千松せんまつ信也さんがイノシシになったつもりでどこを通って行くかじっと見定めている姿があったの思い出しました。自分が鳥や虫になってしまうという空想は、こちらは輪廻転生の話なのかもしれませんが、手塚治虫さんの「火の鳥」シリーズでも印象強いです。

とある神社に行ったとき、絵馬を奉納する棚に握りこぶし大の丸い石が置いてあって、真ん中に「脱非リア」と大きく縦書きされていたのを見たんです。リアはリア充のことかな? 「現在の自分は実生活充実とは程遠いけど、その状態から脱皮してやるぞ~!」という決意を(勝手に/世話焼きおばちゃん目線で)読み取りました。それを眺めただけのわたしでさえ応援の気持ちが湧き起こってくるんだから、神様はきっと彼あるいは彼女のことを支えてくれることでしょう…!と思えました(*'ω'*)

自分に備わっている性質を伸ばして十全に発揮してこそ、かぁ! 青臭いかもわかりませんが、自分に期待する楽しみというのがありそうですね。

Do anything with all your heart, with all your soul, with all your mind, and with all your strength ☆

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