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緑色の目をした怪物

こんにちは(*'▽')

嫉妬は怖い…万国共通の真理のよう。メキシコには髑髏しゃれこうべを家の中に飾っているお宅があるようで、「怖くないんですか?」と日本から来た記者に訊かれて、「死んでるんだから怖くないよ、生きてる人間のほうがよっぽど怖いよ」と答えていたおばあちゃんがいました。
嫉妬に関して、格言がけっこう残っているもよう。「嫉妬に御用心なさいまし。嫉妬は緑色の目をした怪物で、人の心を餌食えじきにしてもてあそびます」とは、シェイクスピア劇『オセロ』の台詞。


「誇大妄想」と「微少妄想」は一面、他人ひとに直接的な迷惑はかけないものだが、「被害妄想」は違う。おもに対人関係の誤解から生じ、他人が自分に危害を加えようとしていると、思い込むものを指した。「誰かに生命いのちを狙われている」「いつも誰かが自分の後をつけている」「私の食べ物には誰かが毒を入れたにちがいない」――等々。
 この「被害妄想」に含まれるのが、“嫉妬妄想” である。
「夫(妻)には交際しているひとがいるようだ」「上司は自分を嫌っている」「会社は私を捨てようとしている」など。自分が一方的に不利な立場におかれているように思い込む「被害妄想」の、一種が “嫉妬妄想” である。

◆◆◆

“嫉妬妄想” のみならず、嫉妬はすべて冷静になることが脱出の第一歩であった。
 旅に出るのもいい、身の置きどころを変えてみると、存外、周囲がみえてくるものだ。
 嫉妬はやがて、わが身にも跳ね返る。因果応報を悟らなければ、この負のエネルギーは活発であるため、“嫉妬妄想” などは鋭く嫉妬心に突き動かされて、ますます肥大化し、ついにはふくらんだ風船が破裂するように、自殺や殺人にいたるケースすらあった。
 世にいう “情痴事件” のほとんどが、この “嫉妬妄想” によるもの、といっても過言ではあるまい。フランスの作家プロスペル・メリメの小説『カルメン』の中で、騎兵伍長ドン・ホセが人殺しをするのも、このパターンであった。
“情痴事件” に共通してみられるのは、愛する相手に直接の攻撃を加えることよりも、好きな相手、自分の大事な人に手を出した男(あるいは女)、自分の大事な人を奪った相手に対して、怒りを爆発させる感情といえる。
 嫉妬は一般に、憎しみと怒りの複合した感情ではあるが、憎悪・憤怒ふんぬをそのままストレートに発散させることはない。だが、それでもなお嫉妬が積もりに積もって妄想が広がり、当事者が精神的に未熟であると、対象者を抹殺する方向へむかうことが、なきにしもあらずであった。
「愛してなお信じえず、疑ってしかも愛着する」(シェイクスピア『オセロ』)
 である。この矛盾は、なにも男女の愛情だけではなかった。
 上司の部下への心情にも、あてはまる場合がある。嫉妬心がストレートな感情を相手にぶつけるとき、攻撃者はその対象者を、自らの所有物とみなしている共通点があった。言うことをきかせたい、服従させたい、という支配欲、利己的な煩悩ともいえる。
 格別、男の場合にこの心情は顕著なのではないか、と筆者は疑ってきた。
 最近、悲惨なストーカー殺人事件がときおりマスコミに報じられるが、少なくとも日本史において、この種の殺人は戦後の高度経済成長期以降に発生したもの、と筆者は考えてきた。
 なぜ、戦後なのか。敗戦国日本は、戦勝国アメリカの民主主義を無条件に享受した。物質的豊かさを追求する世界に、その限界・反作用を考えぬまま、自身の心と体をゆだねたわけだ。おかげで世界中から、奇蹟とも賞賛された高度経済成長を成し遂げた。
 だが、その副産物として、戦前にはきわめて濃厚であった清貧な生活へのあこがれが消え、あくなき物質欲の追求は分限を持たず、よりよいものをがむしゃらに所有しようとする方向に進んだ。恋愛も、商取引の等価交換と思い込むようになる。労力と時間、金銭を費やして、ようやく手に入れたと思った彼女(彼氏)が、いつしか心がわりしてしまった。つまり、不等価となり損をしたのだ。
 ここで、今風によく使われる「ありえない!」という若者言葉が登場する。
 このセリフを翻訳すれば、「それは起きるはずのないことだ」とか、「それは起きてはならないことなのだ」――つまり、非常識に対する抗議の言語となるが、その音声には明らかに、失恋をした “消費者” の傲慢ごうまんな響きがともなっていた。なぜ、そう響くのか。
 すでに愛情は消えて取り返せないのに、消費者的態度は精算を求め、自らへの反省もなければ、相手への謝罪もない。それどころか、「裏切りは許せない」と相手を一方的に悪者にしつつ、本当の心は自分のため、物質的な打算によって裏打ちされていた。
 換言すれば、「恋愛して損をした。だから弁償してくれよ」となる。
 それが無理なら、りを戻してくれよ。代価を払った出資者、所有者は自分なのだから。
 ――側面には、心のバランスの問題もあった。
 自分だけが損をして、この別れは不公平ではないか。自分は多大なダメージを受けたのだから、相手も同じだけのダメージを受けるべきであろう。いささか幼稚で、ねじれた精神年齢の低さが、つきまといという馬鹿げた行為に、成人した人を走らせる。
 が、このストーカー行為ほど、取り返したい相手を遠ざけるものはなかった。つきまとえばまといつくほど、対象者の不快指数は高まる。「体」(口や表情、姿も含む)と「心」はブーメラン効果をおこして、互いの間ではねかえりながら、仏教でいうカルマを深めていく。
 業を煮やす(思うように事が運ばず、いらいらする)時間がふえれば、対象は逃げるもの。
 嫉妬の対処法が冷静になること、距離を置くこと、離れることであるのと同様、ストーカーはそういう方向に自らを向かわせるべきであるのに、逆に走り、ついに逆キレして、相手の生命いのちまでも奪うような行為に出る。

◆◆◆

 上司のついでに、老成(経験を積んで、熟練した)者、老人についてもみてみたい。
 人間、年をとると食べ物の好みがあっさりと淡白になるように、人柄も全体に枯れるもの、との思い込みが一般にはある。嫉妬などというナマな感情とは無縁となる、と信じている人もいるようだが、これは明らかな誤解であろう。
 老成者も老人も、むしろ年齢と共に不平・不満は募り、他人ひとに嫉妬する傾向が強かった。
 とくに気力、体力の衰えが自覚されるようになると、嫉妬の炎は生活の変化とともに燃え立った。反省、過去への追憶が、多くの悔いにつながっていくからである。世の中で後悔のない一生を送れた人は、老成なり老人となる現実をそのまま素直に受容できる人であろう。(略)
 もっといい仕事(質量ともに)をしたかった、もっと上の地位につきたかった、もっとすてきな異性と交際したかった、もっとすばらしい相手と結婚したかった、もっといい家庭を築きたかった――さまざまな心残りが、脳裏を去来きょらい(行ったりきたり)する。…つづく

加来耕三

『日本史は「嫉妬」でほぼ説明がつく』(方丈社、2017年)より


魑魅魍魎ちみもうりょう跋扈ばっこするイメージ強い平安時代の眉毛を抜いてちょこんと描く眉は、相手に表情を悟られないための、素直な心情を隠す工夫でもあったそう。その時代に生まれていたら、宮仕えより野良仕事をしたいと思うわたし。

ただ、「競争心による正常な嫉妬」というのは物事の発展・発達には不可欠のようで、我欲も丸々否定するのはもったいないのかも。「投影された嫉妬」や「妄想的な嫉妬」にはお気をつけあそばせ!ということのようです。

【投影された嫉妬】…片方が持った願望をライバルに投影して、それを激しく攻めることにより、自分にはそうしたやましい欲望はないようなふりをするもの。己の欲望は隠して、相手の至らなさを思い、内心で攻め、一方で自己弁護する。

「人は望むとおりのことができるものではない。望む、また生きる、それは別々だ。くよくよするもんじゃない。肝心なことは、ねえ、望んだり生きたりするのに飽きないことだ。」by ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』

だそうです!!

Keep calm and don't burn with jealousy ☆

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