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善く生きて死ぬ、とは

こんにちは(*'▽')

こんど参加する読書カフェ(哲学カフェ)の課題本は、池田晶子さんと陸田真志さんの往復書簡をまとめたものです。ただ生きるだけじゃなく、善く生きる。わたしはかっこよく生きたいのですが。最近かっこいい生き方だと思ったのは、スーパーボランティアと呼ばれている尾畠春夫さんかなぁ…!


 私の罪は、そのような法律、つまり他人が「ここからは死刑、ここからは死ななくてよし」と決めた法律ルールなんぞには関係のない、私自身が「悪い」とする、自分自身にとっての「罪」以外の何物でもなく、たまたま私が「法律ルール上の罪」をした時が現在いまで、場所が日本ここで、そこのその時の法律ルールにおいて「死になさい、生きなさい」と言われるなら、「わかりました」と言うだけの話なのです。なぜなら、法律が私を選んだのではなく、私が日本ここに居る事を選び(出て行く事も、他でそれをする事もできたのに)、私が、この法律ルール選んでやったから・・・・・・・・、なのです。そんな他人が決めた法律ルール上の人権という「他人の概念」を、自分や人間の天賦の権利と信じている「人権派」の人たちや、その人権という概念ルールみずから他人を殺すことで否定しといて自分の人権ルールだけは他人に守れと言う、堺の19歳に、何も考えずに他人の考えを受け入れる事のどこが自由で権利なのか聞いてみたいし、それ位、法律ルールを理解できてるなら、その人間キミは「少年」ではないし、自分で始めた薬物シンナーのせいに、自分の罪を転嫁させるのは見苦しかないか? それは君が殺した被害者に対して、殺害以上の罪を犯しているとは思わないか? それで君は、この先何十年か生きて、やはり死んでいく時に、どう思って死んでいくつもりなのか? と聞いてみたいのです。
 私の罪への「罰」があるとするなら、それは私が罪を償う事以外にはありません。死刑になったとしても、全然私の中では「償えた」とは思えませんし、無期になったとしても、人間、ほっときゃいつかは死ぬのですし、同じ事です。そこが「死刑は究極の刑罰」と言われる事への私の疑問でもあるのです。
 死は不幸な事ではない。万人にやってくる必然であり、本当に不幸なのは、生きている内に自己を考えず、知らずにただただ、金や食い物や、服や容姿や結婚や家族や健康や宗教やヤルだけの恋愛などだけを、自分の幸せと思って、ただ生きて、死ぬ時になって「それらがなければ、自分は今まで幸せとは思えなかった。自分自身、自分そのものだけ・・では、幸せではなかった。自分そのものは生まれてから今まで不幸なまま・・だった。それがないこの先も不幸なのか」。そう思いながら、不幸の中で死んで行く事、又は、それさえも気付けずに決して幸福ではない・・・・・・・・・人生を終わる事。この事こそが「不幸中の不幸」と思えるのです。
 私の罪とは、厳密に言えば被害者の命を奪った事より、彼らが彼ら自身の真実に気付き得た可能性を奪った事にあります。人間がその自己の真の目的に気付く潜在能力potentialを有している。その事こそが万人に平等にある「人が人としてある」天賦の権利、「人権」であると思えるのです。その為のきっかけと時間を、罪を犯した者に与えてくれる死刑制度は、むしろ、非常に人道的であると思えるし、無理にその人間自身の罪悪を考えさせないようにする少年法や人権派の方が、むしろ、非常に人の道を外したものであり、その人間への「仁義」を見失っていると思うのです。
 私が被害者の事を思う度、自身の犯罪を悔いるのは、この一点のみです。「御遺族の気持ちを思うと」と前に書きましたが、あれもよく考えれば私の偽善であったと思うのです。何故なら私は、彼らではないし、彼らの気持ちなど分かる事は決してない。私は私の思う仕方でしか、罪も償いもわからないし、出来ないのだ。どうやっても、私が殺した被害者は帰ってはこないのだ。そう思えました。これを書けば、御遺族の方も怒られるでしょうが、彼らも生前の被害者の方と同様に自己を知ってはいない。そして親御さんと言えど、被害者の本当の姿を知ってはいないだろう。それは不幸な事ではないか。被害者にとっても、御遺族を含む世の中全てに対して私は「俺は、もう気付けたからいい」と言っているのと同じではないだろうか。それは「利己」であり、自分を含む全ての個を愛する「利個」にならないのではないか。そう考えだしました。そして、今、この手紙を書いている訳ですが。
 しかし私は、この「書く」という行為を「償い」とか「贖罪」という気はありません。私の償いは私が善く生きて死ぬ事以外にはなく、その中の行為は、「書く」というこの事は、「俺が書きたいから・・・・・・・・書く。俺にとっていいから・・・・・・・・・書く」そう思っています。何故なら、私は自分も池田様も編集部の方も御遺族の方も自分の家族も拘置所の方も犯罪者も善人も狂人もポン中も大臣もホームレスもチンピラも麻原のしょーこー君も等しく「世の中の皆」と考えるし、私が知る世の中とは、私が「思う」世の中、私自身が考える私にとっての・・・・・・世の中でしかない、と思い、生きているからです。そして私にとっての真実の「善い」とは、皆、全ての人にとっても「善い」でなければ、それは個人的な「善い」であり、真実の「善い」ではない。私は真実本当の「善い」を自分に、そして私が思う事によって在る私の中の被害者の存在に対してする事で、本当に「善く生き、善く死のう」、そうやって自分自身の真実に恥じなければ、それを真実を知らない誰かに何と言われようとかまわない。そう考えました。

睦田真志

『死と生きる 獄中哲学対談』(池田晶子&陸田真志、新潮社、1999年) 「陸田真志 三通目の手紙 平成十年五月十日」より


人が抱く欲望は、だれか他の人・社会からの影響が色濃いのだと聞いたことがあります。ここで言われている「ただただ、金や食い物や、服や容姿や結婚や家族や健康や宗教やヤルだけの恋愛などだけを」求めて生きるのは、「世間の物差し」のみで行動していることになって、こうした基準をもとにしてそれを目標に目指すことを「外在的目標志向」と呼ぶそうです。でもそれだけだと、抑うつ的になってしまって、幸せや喜びに湧く感情から遠ざかってしまうみたい。心理学者のティム・カッサー氏とリチャード・ライアン氏は、人生の目標を、こうした外在的目標志向とは別に、家族や友人との楽しんだりくつろいだりする時間・関係を満足なものとして努力することに価値をおく「内在的目標志向」があるとしています。わたしの内在的目標……なんだろう!? 死ぬまでに、いろいろ経験して味わい尽くすことかな?

「凶悪」(白石和彌監督、2013年)という映画があります。えーっ、実際にあった事件がベースなの!?と驚くのですが、いとも簡単に殺人が行われていきます。殺人は犯罪です。でも、収監された「先生」(リリー・フランキーさん)が死刑にならないことに憤懣やるかたないようすの藤井記者(山田孝之さん)、彼のなかに渦巻く黒々とした感情について考えさせられました。須藤(ピエール瀧さん)が教誨師にすすめられてペン字にはまったり穏やかな気持ちになったりすることを許せない。これはあたりまえの感情なのかもわかりませんが、一方で、被害者でも遺族でもない私は須藤の心の変化をよしと思っても差し支えないのかもしれない。100%悪人として描かれていればそんなこと思わないけど、劇中、人間らしさも垣間見えてしまって…。う~ん、う~ん。唸っています。

タイトルの「善く生きて死ぬ、とは」。ここでは結論出せません。池田晶子さんと陸田真志さんの往復書簡のつづきを読んでいきますが、生きている間中「こういうことかな?」と模索しつづけるような気の長さが必要な命題なのかもしれませんね…(*'ω'*)

Don't you meet truly yourself or live well ??☆

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