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このままみすみす子どもフレンドリーな人たちを死なせるままでいいのか。

最近、都内まで出かけることが多いのだが、相変わらず、子どもまたは赤ちゃんを連れている人に目が行ってしまう。これは16年前に子どもが生まれてからずっとそうだ。

私には夢がある。アイ・ハブ・ア・ドリーム。電車のなかで小さい子どもまたは赤ちゃんにちょっかい出すおばさんになりたい。なりたいのだが、勇気が出なくてなにもできないでいる。地元では、先々月、病院の床に寝っ転がる子に話しかけるおばさんデビューを果たしたが、なかなか都会ではハードルが高い。せめて、と思って、「子どもが少しくらい声出してもぜんぜん迷惑じゃないですよ~。ご安心くださいよ~」というオーラを出しているつもりだが、伝わっているか果たして疑問だ。

別に子どもは好きじゃなかったし、今も得意ではないと思う。たとえば子どもと遊ぶよりは、子どもが遊んでいるのを見ている方が好き。
それでも子どもをふたり持ってしまったので、子どもが好きとか嫌いとか以前に、子どもを全肯定する自分になってしまった。たとえ金属音で泣き叫ぶ子どもがいても、うるさいと思うことはあっても、悪いのはその子じゃないと思うのだよね。

時々、電車のなかなどで子どもの元気な声がすると、いいなーと思うと同時にハッとする。「それ」は子どもを連れている母親から伝わってくる。
都会で小さい子どもまたは赤ちゃんを連れている人は、おしなべて緊張している。顔がまずゆるんでいない。親切をも拒みかねないからだのあり方をしている。それは私にも思い当たることで、自分の過去と重ねて、こちらもまた緊張してしまう。やれやれ。

でも私は緊張こそしていたが、赤の他人でも甘えられるときはかなり甘えさせてもらってきた方だと思う。息子が小さいとき、どれだけ名もなきおばさんたち、おばあさんたち、ときにおじいさんにも、救われてきたかわからない。外出先や駅では、むしろ率先してそういう子どもフレンドリーな人たちを探していた。当時は都下に住んでいたが、そういう人たちを見つけることはそれほど難しくはなかった。気がついたら駅でおじいさんにオロナミンC買ってもらってたときはあわてたけど、お菓子食べてる人の前にわざわざ立つ息子にやさしくしてくれた親子連れとか、息子の名前当てゲームで盛り上がってくれた男子学生たちとか、ほんと過ぎてみれば親切な人たちばかり。(まあ私がそういう人たちを探し出すアンテナを立たせまくりだったとも言えるが)

それでも時々、降りる駅じゃないのに降りなくてはいけなくなることもあった。電車の座席で横になった息子の足が、おじさんにぶつかり、怒ったおじさんは「しつけがなってない」と言い放った。あの時、降りる駅じゃないホームから電車を見送った気持ちは忘れない。

これから、子どもフレンドリーな人たちは減る一方だ。赤ちゃんを触ったことのないまま大人になった人だらけの電車に、ベビーカーで乗り込むのは、想像しただけで胃が痛くなりそう。
赤ちゃんを触ったことのないまま母親になった私。息子は先日16歳になった。娘はまだ5歳だが、もう5歳である。このまま、子育てがどんどん楽になって、後の人たちの大変さを横目で見て、「大変そうだな。まっ、おまえらもがんばれよ」というおばさんにはなりたくない。自分が大変だったから、後の人たちも大変で当然という人もいるかもしれない。それって、解消されていない恨みを持っている状態なのだと思う。それは本人の精神衛生上にもよろしくないだろう。なにより、負の連鎖を仕方ない、当たり前だとしてしまっている時点で、部活かっ! いじめかっ! と思う。そしてダサい。
アイ・ハブ・ア・ドリーム。


まだぼやっとしたままの企画があるのですが、こちらで【子どもフレンドリーな人を増やそう時には起こせよムーブメント!(仮)】に関する文章をちょこちょこ載せていこうと思います。よろしくおつきあいください。

楽しいことをしていきます。ご一緒できたら、ほんとにうれしいです!