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ジュウ・ショのサブカル文学マガジン

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文学についてサブカルチャー的な視点から紹介・解説。 学術書とか解説本みたいに小難しくなく、 極めてやさしく、おもしろく、深ーく書きまーす。
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#最近の学び

人間がヲタクになり推し活を終えるまでを4ステップで解読してみた

私は主にアート、マンガ、音楽、小説といった分野でライティングをしている。これらの創作物は、広義で「文化(カルチャー)」という枠でくくられる。 ただ、カルチャーは決してエンタメだけに特化した言葉じゃない。カップ焼きそばUFOのパッケージとか、無印良品のオーガニック食材とか、そういうものもひっくるめて文化だ。決して一過性のブームではない。何人かのヲタがソレを推して歴史を作ったもの。それが文化となる。 カルチャーについては以下の記事で紹介していますので、暇すぎてもう飲料の原材料

横光利一とは|新感覚派の旗手の生涯を蠅などの代表作とともに紹介

「小説の神様」といわれた人間は2人いる。1人は「暗夜行路」などで白樺派の代表的な作家にまで成長した志賀直哉。そしてもう1人は新感覚派の旗手・横光利一だ。 はじめて読んだ横光利一の作品は「春は馬車に乗って」だった。そのあまりの美しさ、鮮烈な比喩表現に衝撃を受けたことをマジで今でも覚えている。 すごい作品だ。鳥の内臓を「瑪瑙のような」とか書いてて、表現がエグすぎて、もう逆にマジでよくわからなかった。 昔に活躍した作家や画家は、今見ると色褪せてしまうこともある。しかし横光利一

金子みすゞとは|日常に想像力を足して誰も見たことない世界を書いた詩人

東日本大震災が起きて民放のCMが流れなくなったとき、金子みすゞの「こだまでしょうか」が流れたのは記憶に新しいところだ。 「遊ぼう」っていうと 「遊ぼう」っていう。 「馬鹿」っていうと 「馬鹿」っていう。 「もう遊ばない」っていうと 「もう遊ばない」っていう。 そして、あとで さみしくなって、 「ごめんね」っていうと 「ごめんね」っていう。 こだまでしょうか、 いいえ、誰でも。 相手にかける言葉は自分に返ってくる。思いやりの大切さをいったこの詩は、優しさが溢れていて

芥川龍之介とは|人間のエゴを描き「答えのない難題」を書いた作家

芥川龍之介の作品は、たぶん日本国民の80%くらいが読んだはずだ。「羅生門」は高校の教科書の常連ですよね。福田雄一監督の作品における佐藤二朗くらい毎年出てくる。 男が死人の髪を売ろうとする婆さんを見つけ、服を剥ぎ取り逃げていくシーンに衝撃を受けた人も多かろう。「イカれた婆さんだ。服をパクられても仕方ないだろ」と感じた方もいると思う。しかし一方で「ちょ、婆さんかわいそうじゃね? お腹減ってんだから仕方ないよ」と思った人も多かろう。 芥川龍之介(特に初期)という人は、こうした「

太宰治の「人間失格」で笑えなくなった人は、いったん寝るべきだ

太宰治といえば、非常にネガティヴかつ陰鬱な作品ばっかりで、読んでいて暗くなると思われがちだろう。はい。その通りです。一見、死ぬほど暗い。ずーっと、うじうじしている。 しかし人によっては、笑いながら読める人も多い。渋谷のクラブでコロナビールの瓶にレモン沈めてる兄ちゃんが読んだら「いや、こいつ自分好きすぎるっしょ。ウケんだけどやばくね」と笑いながら読むに決まっている。 なかでも「人間失格」という名作はヤバい。とにかくずーっと自分語りで、自意識過剰が止まらない。「他人に気を遣い

日本近現代文学史をまとめ|23種類の流派を80人の作家で徹底解説

私たちが普段読んでいる小説や詩などの文学作品。その基礎は坪内逍遥の「小説神髄」と二葉亭四迷の「浮雲」によって作られた、ということを以前紹介した。 この2作はガラケーからスマホに変わったくらいの革命を日本文学に及ぼしたわけだ。 2人が構築したのは「写実主義」だった。それまでの日本文学は「人間の心理にほぼ触れず、勧善懲悪のストーリー」ばかりを追いかけるものである。 それが「写実主義」では「心理描写に重きを置き、かつ日常的な世界が舞台のもの」となったのである。 この「写実主

坪内逍遥とは|戯作・歌舞伎など日本文化を変えた革命家【小説神髄の解説】

江戸時代の「南総里見八犬伝」やら「東海道中膝栗毛」などの作品に「なんとなく昔の古い作品」というイメージを持ってしまうのは私だけだろうか。それに対して明治期の「浮雲」やら「たけくらべ」などの作品は「距離が近くて親しみやすい雰囲気」を感じる。 このイメージは「坪内逍遥が作り上げた」といってもいい。さらにいうと、いまの小説、演劇の多くは坪内逍遥なくしては生まれなかったともいえる。 彼は日本文学史において、明確に区切りをつけた人物なのである。 今回はそんな日本文学史の大スター・