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ジュウ・ショのサブカル文学マガジン

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文学についてサブカルチャー的な視点から紹介・解説。 学術書とか解説本みたいに小難しくなく、 極めてやさしく、おもしろく、深ーく書きまーす。
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#短編小説

一所懸命に鼻をほじる自分に嫌気がさしたので定期投稿を再開します

「最終更新148日前」 なんとなく眺めていたスマホに、そんなあまりに衝撃的な文面が現れ、思わず鼻をほじる指が深層部で止まりました。 「そんなに長くマガジンを更新していなかったのか」と冷や汗が噴き出したんです。シーブリーズのCMくらい汗出たんです。そりゃもうツツーじゃなくてドバドバと。指は鼻腔です。冷や汗が出過ぎて、鼻奥の変なスイッチ押したかと思った。 作るより前に私は熱心に鼻くそをほじっていた え、148日……? いやいやネタが完全に死んだわけじゃない。おかげさまでい

横光利一とは|新感覚派の旗手の生涯を蠅などの代表作とともに紹介

「小説の神様」といわれた人間は2人いる。1人は「暗夜行路」などで白樺派の代表的な作家にまで成長した志賀直哉。そしてもう1人は新感覚派の旗手・横光利一だ。 はじめて読んだ横光利一の作品は「春は馬車に乗って」だった。そのあまりの美しさ、鮮烈な比喩表現に衝撃を受けたことをマジで今でも覚えている。 すごい作品だ。鳥の内臓を「瑪瑙のような」とか書いてて、表現がエグすぎて、もう逆にマジでよくわからなかった。 昔に活躍した作家や画家は、今見ると色褪せてしまうこともある。しかし横光利一

金子みすゞとは|日常に想像力を足して誰も見たことない世界を書いた詩人

東日本大震災が起きて民放のCMが流れなくなったとき、金子みすゞの「こだまでしょうか」が流れたのは記憶に新しいところだ。 「遊ぼう」っていうと 「遊ぼう」っていう。 「馬鹿」っていうと 「馬鹿」っていう。 「もう遊ばない」っていうと 「もう遊ばない」っていう。 そして、あとで さみしくなって、 「ごめんね」っていうと 「ごめんね」っていう。 こだまでしょうか、 いいえ、誰でも。 相手にかける言葉は自分に返ってくる。思いやりの大切さをいったこの詩は、優しさが溢れていて

芥川龍之介とは|人間のエゴを描き「答えのない難題」を書いた作家

芥川龍之介の作品は、たぶん日本国民の80%くらいが読んだはずだ。「羅生門」は高校の教科書の常連ですよね。福田雄一監督の作品における佐藤二朗くらい毎年出てくる。 男が死人の髪を売ろうとする婆さんを見つけ、服を剥ぎ取り逃げていくシーンに衝撃を受けた人も多かろう。「イカれた婆さんだ。服をパクられても仕方ないだろ」と感じた方もいると思う。しかし一方で「ちょ、婆さんかわいそうじゃね? お腹減ってんだから仕方ないよ」と思った人も多かろう。 芥川龍之介(特に初期)という人は、こうした「

自然主義文学とは|西洋と日本の違いを徹底解説

日本近代文学の歴史は坪内逍遥と二葉亭四迷からはじまる。ということは以前も書きました。 水戸黄門とか遠山の金さんみたいな「勧善懲悪」の世界について「いやもう戯作やめぇ。アンパンマンすな」とツッコみ、現実のリアルな舞台をもとに人の心理を書くことをすすめたんですね。 これが写実主義だ。なので べし とか なり とかでなく「話し言葉で書く」ようになるんですね。 で、そのあとに「江戸の戯作は日本の文化だろうが」と擬古典主義が出てきて写実主義に反発する。これをロマン主義という「俺の

二葉亭四迷の「浮雲」とは|あらすじ・言文一致体の意味をわかりやすく解説

日本文学の歴史において、坪内逍遥の「小説神髄」が革命的な役目を果たしたことは以前に紹介しました。この評論がきっかけで日本文学は「勧善懲悪の江戸戯作」から「日常を舞台に人間の心理描写をリアルに描くもの」に変化していくわけだ。 しかしこの評論をもとに坪内逍遥自身が書いた「当世書生気質」という作品は盛大にすべり散らかすわけです。「江戸戯作なんてもう終わりにしよう!」といった坪内自身が、まだ若干江戸戯作のテイストを引きずっていたのだ。 そのことを指摘したのが二葉亭四迷だ。そして「

日本文学史を年表でまとめ!作家・代表作で一気に振り返る【奈良時代から平成まで】

文学というでっかいカルチャー領域を理解するために、いったん日本の文学の歴史を年表でデータベース化したらわかりやすいかも! と気づいたので、時代ごとに代表作家と代表作品をざっくり書いていきます。ちなみに今後、いろんな記事を更新するなかで、このざっくり文学史年表をアップデートしていく予定です。 では!いざ歴史が長くてややこしい日本文学史を奈良時代から平成まで、代表作品と代表作家を見ていきましょう。 奈良時代の日本文学奈良時代の代表的な作家・ディレクター ・太安万侶 ・額田王