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これは……もう、飼ってるのかな。内田百閒「ノラや」現象。

ここ2週間、近所の野良猫が我が家の玄関前を寝床にしているようだ。仕事から帰るとぼんやりした顔で居る。ちょっと起きて「なんやお前」みたいな顔でこっちを見るが逃げはしない。このふてぶてしい感じでいられると、なんだかこちらのほうが猫の邪魔をしているようで、「どちらかというと犬派なんですけど! どいてくれませんかね!」とはなかなか言い出せず、ついには猫缶を与えてしまった。

ゆっくり歩いてきてゆっくり猫缶を食べている様を見ると「どいてくれませんかね!」と声を張ったところで、真顔で煽られるのが関の山だ。この落ち着きっぷりはもう勝新太郎に近い。「医者にタバコ止められたからやめた」と言いながらタバコをくわえているあの会見の姿を思い出す。

いやそもそも私は2ヶ月前に越したばかりであり、たぶん猫のほうが先輩だ。相撲部屋では新弟子がちゃんこ番を任され、先輩が食べ終わってから残りを食う。

「とりあえずミルクか」と思い、猫に一礼して脇を通ってコンビニで牛乳パックを買い、自宅に戻って部屋に入り、器に注いでから渡した。猫はちらっとこちらを見てミルクを舐め始める。「おう、うめえじゃねえか」といった感じ。私は「あざっす!市販っすけどへへ!あざっす」と雑魚キャラ感を出しながら、残りのミルクをコップに注いで一緒に飲んでいた。

隣で飲みながら覚えたのは「これ……飼ってんのか」という訳のわからん疑問だった。飼う=買うでは決してないので、お金を出して家猫を買うという行為が飼育とは結びつかないし、かと言ってただ猫缶とミルクを渡して「飼う」と口にするのはおこがましい。なんだこの状況。内田百閒の「ノラや」の冒頭みたいな。野良猫の世話が続いてしまったら愛着が出てきて、いよいよ3食を提供したり、風呂に入れたり、たまに来ないときに「あれ……? あいつなんで……? まさか……事故?」みたいな、いくえみ綾的な第六感が働いてしまったりするかもしれん。「ノラや」ではその後のらが来なくなって、心配になって猫の墓を掘り起こしたり、新潮に「猫探してます」みたいな広告を出したりするのだが、これは内田百閒が新聞小説を書いていたからできることで、もし愛着が湧いたあとに来なくなったらTwitterで「猫、探してます」みたいな文を書くのか私は。「名前は何ですか?」と聞かれたらどうしよう。「いや実質ノラなんで……あのー、猫といっても、なんですかね、あのー、ノラなんですよ。探してるんですけどノラなんです……ええ、自分でも変なこと言ってんなぁって、へへ」となる。絶対なる。

なので、もう世話をすることはやめよう、と思ったが、隣で一緒にミルク飲んでるし、キューブリックの「時計仕掛けのオレンジ」ではミルクが友情の証みたいな感じだったし、となると俺は猫連れてホームレスをしばきに行かなきゃならんのか……いや脱線しとる。違う。猫の飼育に本腰を入れるか否か、という話だった。……と長々考えてる時点で、私はもうこいつの虜なのだろうね。うん。でも飼わない。決して四六時中世話はしない。だってもうノラやみたいになるから。いなくなったら困るから。「スターゲイザー」だから。(と言いつつ、ちょっと名前を考え始めている)。

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