シュルレアリスムとは

「シュールやなぁ」ってよく友だちなんかと話すことがあるよね。テレビでユニークな芸人を見て、シュールやなぁって。よゐことかさまぁ〜ず、板尾創路、野性爆弾なんかは、よくシュール組に分類されてる気がすんなぁ。

ところで「シュール」ってなんだろう。どういった状況を指す言葉なんだろう。ここらで一度、我にかえってほしい。意味もわからないままカタカナを使うのは、死にかけのITコンサルタントだけでいい。ほら、ちょっとうさんくせえので、ここで一度「シュール」について知ってみようじゃありませんか。

「シュール」=「シュルレアリスム」

シュールの正式名称は「シュルレアリスム」だ。シュルは超。レアリスムは現実主義。つまり日本語に訳すと「超現実主義」となる。

「あ〜たしかにくっきーとか現実を超えてる感じするわ〜」と思った方は、ここからハズキルーぺをかけてください。

「超現実」とは「現実を超越している」ことではない。むしろ逆。「ハンパないくらい現実」ということだ。OLがランチタイムにヌカす「超パンケーキ食べたーい。あ、ネコだ! 超かわいいー」的な意味での"超"である。

これはシュルレアリスムの本質的な意味なので、血尿でアンダーラインを引いてくれ。覚えておいてほしい。さすれば、いつも聞く「シュール」が、もとの意味と大幅にかけ離れていることが最後に分かるだろう。

シュルレアリスムの起源とは

「シュルレアリスム」という言葉は、ギョーム・アポリネールというポーランドの文学者・美術評論家が生み出した。アポリネールはピカソなんかも傾倒した「キュビスム」という言葉をつくって「印象派とか古くね?」って触れ回った人でもある。1900年代初頭のヨーロッパ美術を語るうえで欠かせない変態紳士だ。

その「シュルレアリスム」を芸術表現として広めたのがパリの詩人・アンドレ・ブルトンだ。ぶっちぎりの主役である。とはいえいきなり「シュルレアリスムはじめました」と宣言したわけではない。彼はもともとダダイスムという芸術運動に参加していた。このダダイスムこそがシュルレアリスムを解説するうえで重要な運動なので、一度さらっておこう。

シュルレアリスムの源流となったダダイスムとは

ダダイスムは1910年代に起こった。当時、世界は第一次世界大戦の真っ最中。芸術家たちはアートのチカラでは及ばない「戦争」を目の当たりにして「だりいわ。まじ戦だりい」ってげんなりしてたらしい。

「そもそも中産階級のくそ連中が合理的すぎるから戦争起こったんちゃうんけ!」

「そやそや! こうなると理性があるっちゅうのも考えもんやな」

「よっしゃ! これからは意識すな。わしらは動物じゃ! 凝り固まった思想とかクズじゃ! 燃やせ」

なんつって「つくろう」とする意識そのものの破壊、脱却、革命を目指したのである。

主宰者のトリスタン・ツァラは活動の名称を決めるとき、辞書をバーっとめくって「はいこれね!」と偶然に身を任せて指差した。そこにあった言葉が「ダダ」。だからダダイスムに決定。非合理主義だから、確固たる意味とかあっちゃいけないのね。どんしんくふぃーる。考えるな、感じろ。

ダダイスムはかなり革命的な運動だった。だって芸術を根底から覆したんだから。それまでの数百年間で"つくられた"数々の作品は、ダダイストからしたらぜんぶクソ。「よし! こんなの描くぞ〜」って決める時点でくだらない。早よ捨てろって否定しまくった。

ダダイストたちの活動とは

そんなパワーを持つダダイスムには多くの芸術家が賛同した。ツァラやブルトンなどの詩人をはじめサルバドール・ダリやマックス・エルンスト、ルネ・マグリット、マルセル・デュシャンなどの画家、写真家のマン・レイ、ハンナ・ヘッヒなどのコラージュニストが名を連ねている。クセが強ぇメンバーである。

特にダダとコラージュは、ものすごく相性が良かった。既存の写真を一度破壊して、元の作者がまったく予期していないかたちに仕上げる。まさにダダの破壊と野性の思想を踏襲しやすい技法だった。

有名な「泉」もこの時代。デュシャンは「もはやわし、ただの便器とか出品しちゃうもんね!」つって、作品を意識することすらやめた。レディメイドのはじまりであり「いや、アートってなんなん」と世界中の人にあらためて問いかける要因にもなった大事件だ。

ダダイストたちは「壊すで! 壊すで! 人間の理性とか意識とかをどんどん壊すでぇ!」とがんばるけど、あるときに気付く。

「あれ、これ限界なんちゃうか? もう壊す方法が思いつかへんのやけど」
そう。5年ちょっとのうちにダダイスムは限界がきたのだ。

理性を壊すではなく、無意識になる

でもアンドレ・ブルトンだけは違った。彼は「無意識」に目をつけたのだ。「理性を壊す」と「無意識につくる」って同じじゃね?って。単純そうに見えるが、これは稀代の発明だといっていい。

それでフロイト、ユングの哲学・精神学や、画家・ジョルジョ・デ・キリコの形而上絵画などをヒントにして、1924年に「よっしゃ、シュルレアリスムじゃーい! じゃーい! じゃーい!」とエコーがかかった声で旗あげしたのである。

シュルレアリスムと自動筆記

ダダイストたちは「なんやそれ! おもろそうやんけ」と賛同する者と「くそか。やめとけ」と否定する者に分かれた。抗争になったが、結局賛同派が強く。シュルレアリスムは一定の地位を得る。

思考の流れはダダに似ている。ブルトンは自著『シュルレアリスム宣言』のなかで「自由最高! 自由ってなんて素晴らしいの!」みたいなことを言った。「ドストエフスキーの『罪と罰』とかマジ駄作だから。既存の概念に凝り固まりすぎだから笑。もっとあたらしいことやろうぜ!」みたいな、なんか新卒のビジネスマンっぽいことも。つまりシュルレアリスムの本質は「自由」なのだ。

「つくろう」と思うと、どうしても思考にストップがかかる。社会にはルールがあって、人間は基本的に「やっちゃいけないこと」はできない。あり得ないコトを否定したくなる"意識"がはたらく。シュルレアリスムはそこに一石を投じた。"意識"というフィルターを外そうぜ! って。無意識にこそ、あなたの本質があるよって提言したのだ。

無意識は自由だし人間の本質。またホンモノの芸術であり、それが真の美になる。という思考のもと、シュルレアリスムは隆盛した。

アンドレ・ブルトンは自著『ナジャ』のなかで「自分自身の人格とか性格とかを知るのは簡単。ほれ、まわりの友だちをご覧よ」みたいなことを言う。友だちや仲間は自然と集まるもの。ほぼ無意識的にコミュニティに参加するし、人は人とつながるし、合わなければ離れてゆく。友だちは無意識的に広がっていくのである。

シュルレアリストたちの活動とは

無意識をカタチにするためにシュルレアリストたちは各々工夫を凝らしている。

たとえばダリは無意識を描くために、キャンバスの前で食器を持ったまま眠っていた。眠ってしまえば、当然食器を落とす。その音で目覚めて、さっきまでまどろみのなかで見た光景を絵に落とし込んでいたのだ。これは「夢」を用いて無意識を可視化させる手法。

ブルトンは「シュルレアリスムは心の純粋な自動筆記(オートマティスム)」と言っている。自動筆記とは簡単に言うと「とにかく速く書きまくること」だ。頭のなかで文を考えると、どうしても意識がはたらく。するとロジカルで普遍的な作品になる。意識を通さないために、いったん頭を空にして、思いついた言葉を一目散に書いたのだ。

スピードを追求するあまり、ときには弟子と会話方式でやってたらしい。来る日も来る日もわけのわからん言葉を浴びせられ、わけのわからん言葉を吐けと命じられた結果、弟子は心を病み自殺した。とんでもないブラック企業である。まぁしゃあない。興味がある方はブルトンの「溶ける魚」を読むといい。わけはわからんが、名作中の名作だと個人的には思っている。

シュルレアリスムは、1945年くらいまで続いた。つまり実質たった20年くらい。ダダと合わせても30年くらい。スーパー短期間の芸術活動だ。でもあまりに強烈なインパクトを残したので、いまだに「シュール」という言葉は現代人にまで受け継がれている。

では具体的にどのような表現がシュルレアリスムとなり得るのか。例示してゆこう。ただし、私はブルトンから直接話を聞いたわけではない。ここで述べるのは巌谷國士さんや塚原史さんが書かれたシュルレアリスム関連の解説書を読んだうえで、個人的に定義づけたものである。

「シュール」≠「シュルレアリスム」

大事なことなので最後まで繰り返すが、シュルレアリスムとは「夢のような出来事が起きてもすべて現実だと認めること」である。

では、あらためて世の芸人を見てみよう。
たとえば野性爆弾のくっきー。おかしな格好をして少々グロテスクなネタを披露する。「なにしてんねん! シャンプーしてるときに思い出すようなネタをすな!」とフットボールアワーの後藤あたりがつっこむ。この時点でシュルレアリスムは成立しない。

たとえば、鼻がエビフライになっている転校生が来る。先生は彼の名前を黒板に書きながら紹介する。クラスメイトは教科書を見せてあげる。休み時間には「何部に入るの?」「好きな教科は?」とわいわい話す。みたいなのがシュルレアリスムだ。

個人的には「つっこまない」のがシュールの原則かなと思う。だって異常な部分にツッコミを入れた時点で「これはおかしなことだ」と認識しまっているのだから。

おかしな格好と、珍妙なネタを受け入れて、ゲストとしてもてなして、何も触れずに番組が終わって、はじめてシュルレアリスムは完成するのだ。

ただし、そんな番組はウケない。ツッコミがあって「よかった。これはおかしいことなんだ!」と安心するからこそ人は笑える。現在、一般的に使われている「シュール」と、もともとの「シュルレアリスム」とは違う言葉だと考えていいだろう。

シュルレアリスム≠ファンタジー

「シュルレアリスムってさ、なんかファンタジックだよね」。いやいや、まったく違う。ここではファンタジーの例として「ハリー・ポッターシリーズ」を引き合いに出そう。

ハリー・ポッターの舞台は魔法学校のホグワーツだ。校内でほうきに乗って空飛んだり、守護霊を出すのは当たり前のことである。これは超現実としてはそぐわない。どこまでもありきたりな現実に留まっている。カラスは黒いし飛ぶね。とか、電柱に頭をぶつけたら痛いな、みたいなもんだ。

ハリーポッターがJR中央線あたりに乗っていて「エクスペクトパトローナム!」と守護霊を出す。守護霊は足を怪我しており、びっこをひいているので、右端の席に座る若者が「どうぞ」と席を譲ってあげる。守護霊はちょっと会釈して座る。シュルレアリスムとは、つまりこういうことである。

東京はホグワーツと違っておそらくは魔法を使えないので、守護霊が杖の先から飛び出すことは異常である。それを突っ込まずに現実として受け入れる。シュルレアリスムとファンタジーは、根本的な舞台の違いによって区別されるだろう。

シュルレアリスムとは「許す」こと

ダダが「壊す」ことだとするならば、シュルレアリスムは「許す」ことだと思う。何が起きても許してあげる。認めてあげる。それがどんなに悪いこと--殺人や放火のような--だとしても赦す。許す。または悲しいこと--身内の死や身体の欠損--も許す。なんでも肯定する。なんでも愛する。抱っこして頭を撫でるようなのがシュルレアリスムかなぁと思う。

5、6年シュルレアリスムについてアレコレ考えていると、この世で起きるあらゆる事象を許せるようになってきた。いさかうことがなくなったし、人を好きになる回数は増えた。自然と怒りが消えて、喜びが生まれる。前よりも優しくなれただろう。先述した芸人やポッターの例だって、やっぱり許してあげようかな、なんて気にもなる。

非常に駆け足で、なんともつかみづらい内容になってしまったことをお詫びしつつ、最後の最後に「シュルレアリスム宣言」の末文を載せて、お別れするとしよう。


生きるのも、それをやめるのも、想像上の解決である。人生はもっと別のところにある。
(アンドレ・ブルトン著 巌谷國士訳『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』岩波文庫)

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ネオ・シュルレアリスム文学について

日本の物書きです。 シュルレアリスム文学を解釈し直した「ネオ・シュルレアリスム文学」をつどつど載っけていきます。 味わったことのない感覚を、おすそ分け。
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