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「人生で初めて書いた本」と「ペンネームの由来」の話

おひさです。ジュウ・ショです。名前がカタカナなので、よく韓国籍に間違われますが、ゴリゴリの日本人です。九州生まれの縄文顔なんで、派手髪センターパートより、Ken Takakuraパリの角刈りのほうが似合っちゃいます。へへ。自分、不器用なもんで。

久しぶりです。更新しない間も皆さんにフォローやいいねをいただいて、ほんまに感謝です。久しぶりに原稿の手が空いたので、noteを更新します。

質問やリクエストをいただいているものも含めて、ちょっともろもろこれから記事を出していく所存です。ぜひ、暇で暇でヤバくて、なんかもうベッド上でごろごろしながら「日本一画数多いタレントって誰なんやろ」とか思ってるときにでも、ふと思い出して読んでいただけたら嬉しいですね。

毎度、いろんなアーティストの話を書いているんですが、今回はちょっと脱線して「私を消す」というテーマで思い出話をします。

真夏のあっつい日に座禅組みながら原稿書いてたあたし

大濠公園

私がはじめて本を書いたのは24歳の夏でした。福岡の大濠公園という自然豊かな公園の近くに住んでいたので、もうセミが鳴いて鳴いて……。えらいこっちゃでした。

三重奏とか四重奏とかそんなレベルじゃないんですよ。もうね、三十重奏くらい。「みーん」とかそんな音質クリアじゃなくて「あじゃじゃじゃあじゃじゃ!!」って。もうなんか、Mogwaiの『クリスマス・ステップ』の歪み方なんよな。三十重奏にもなると。

真夏にクリスマスソング聴きながら書いてたのが「禅」にまつわる本でした。324ページ。著者名義は東京なお坊さんなので、書名は明かせないんですけど……。でもすごく高名な方で、そんな方のお話を6時間も聞けるってのが、福岡の小僧としては贅沢以外の何物でもなかった。

そのとき私は「フリーランスの集まり」みたいな会社に属していたので、運良くいただけたお仕事だったんです。こんなん、何の知識もないひよっこができるような仕事じゃなかった。

当時はSNSが流行り終わって「SNS疲れ」という言葉が出てくるとともに、世界的にマインドフルネスがブームになった時期でした。「Googleの社員はみんな瞑想してるんだぞ」みたいなのが、ちょっとした流行語で、あっちこっちのメディアで「多国籍の人が目瞑って座ってる画像」が出ていた。

こういうやつ

まだインスタよりTwitterが強くて、TikTokはない時代ですよ。今よりSNSのビジネス色が薄くて、どっちかっていうと「個人が日常のアレコレを発信していた」時期だったと思います。

それで「インフルエンサー」という言葉が誕生した。ブンブンブンブンブン♪。するとみんな周りのフォロワー数なんかを気にし出すわけですね。そこで今まで健康だった人が、明確に自己承認欲求に気づき、ちょっと苦しみはじめた。

だからマインドフルネスが流行ったんでしょう。瞑想とかヨガとか、みんな仏か片岡鶴太郎に近づきたくなってきた。朝から内臓を剥がしたくて、うずうずし出したわけですよ。

出版社がこの禅の本を企画した背景にはこういうトレンドの流れがあったんですね。

で、そんななかで私はまったくといっていいほど「禅宗」の知識がない。これでは文字起こしをして、なんとなく話を書けたとしても、深みが出ない。とはいえ締切もあるんで、山奥で片眉剃って修行かますわけにはいかん。

ということで、3カ月間、朝5時から近くの臨済宗のお寺の坐禅会に参加することにしたんですね。で、お昼は原稿を書く。座禅組んでキーボードうって、せっせと書いてました。そのときはもうね、みうらじゅんのラジオしか聴いてなかった気がするマジで。

「私を消す」はもう禅の用語なんよな

円相図

すると、だんだん禅のキーワード」ってのが分かってくる。例えば「而今」。過去とか未来とかそんなもんに縛られんでええやないか、と。「今この一瞬」だけに集中して毎日を生きていこうや、という考えです。

また「一切皆空」。知覚できるこの世の物事はすべて実体がないものなんだよーって考えです。つい囚われがちな、友だちとか恋人とかお金とか名声とか肩書きとか……突き詰めると、目の前のカップラーメンとか、ティッシュペーパーとか。そう言ったすべては実体がない虚像なんよ。だからそんなもんに縛られんなし。っていう、もう10時間ごとに彼氏取っ替える陽ギャルみたいな。いい意味で身軽な考えなんですよね。

こうした「禅的」な言葉はすべて大好きでした。なかでも刺さったのは「私を消す」。これが最も効いた。ほんと効いてよかった。座禅会の説法でも、お坊さんがおっしゃってましたし、本のテーマもまさに「私を消す」でした。みうらじゅんもよく言ってた。

結局のところ「私」ってのが、生きづらさの根本なんだ、と。「私」があることで、何か知覚できる外的な要因に呪われるわけですよね。

それってほんまに些細なことなんです。例えば「部長に昇進したぜ。うれしいぜ。フゥ!」みたいな。すると「我、部長でっせ」という「私」が出てくる。「部長」と書いたメールを送るのが気持ちよくなってくるし、自己紹介するときに「あ、わたし部長やってます」と、言いたくてしょうがなくなるわけですよ。

「部長としての私」を手放したくない。だからもう一所懸命に働きまくるんですね。それで昇進することもある。昇進して「専務」になってもさっきの部長アイデンティティが専務に置き換わるだけです。

部長とか専務とかそういう実体のない肩書きが呪いのようについてくるわけです。常に"できる後輩"に怯えながら、取り憑かれたように仕事をするようになります。で「きっつ……」ってなって酒の量がどんどん増えていく。この苦しみは「俺は部長だ」っていう自我ーーーつまり「私」から生まれるんですね。

でも「部長」なんてもんは一切皆空。つまり虚像なわけだ。1年後にはその座にいる人は違うかもしれんし、なんかもうスーパーバイザーとか、名前変わっとるかもしれん。

そんなもんに囚われて自我が誕生し、両手を挙げて喜び、しがみつきながら生きる。すると、その先には苦しみがあらわれるっつうわけです。

もちろん「部長」だけじゃないよ

島耕作が女抱きまくるのは肩書きに囚われたメンタル弱者だからよ

これはもちろん「部長という肩書き」に限った話じゃない。

  • 「ほら、私の旦那、すぐ逆ナンされちゃうからさ〜。心配〜」

  • 「俺YouTube収益だけで月500万あるんだわ。マジサラリーマンとかやってらんねぇ」

  • 「この画風にしたらいろんな人に褒められるようになったんだよね」

  • 「え〜恵比寿から引っ越したくな〜い。池尻大橋?ないない(笑)」

こういうのは、ぜんぶ「私」があるからこそのセリフです。これらのセリフを発さなくとも、どれかで「ムカつく」と心がざわざわしたそこのあなた。そのざわつきも、また「私」なんですね……。こわっ。

でも、そう考えたら「私がない人」なんて、ほとんどいないのではないか。って思えてくるよな。いや、マジでそうだと思いますよ。この世の99%の人って、何かしらに呪われてて「好き・嫌い」とか「やりたい・やりたくない」とか、「私ってこういう人じゃんか〜」とか「俺はいいけどYAZAWAはどうかな」とか、そういうのがある。

そういった「私」の背景には「足りていない」っていう、これまた厄介な自負があります。仏教の言葉に「知足」、つまり「足るを知る」というものがある。いや、もう意外とみんな足りてるんですよ。

「夢を追いかけろ」とか「理想に近づくために努力する」とか、そういったセリフの反対の考えですよね。夢とか希望を歌ってたファンキーモンキーベイビーズもメンタル病んで不倫したでしょう。そういうことです。夢を追ってる間は常に足りていない、理想の自分との距離が生まれるわけですよ。

「足りていることを知る」。その上で夢とか理想とかそんな未来のことなど考えず、いま目の前のことに集中する。

するとあらゆる縛りから解き放たれた感覚で生きられるもんです。楽ちんなんですな。

ペンネームをジュウ・ショにした話

TSUTAYA 天神駅前福岡ビル店

さて、話を戻します。そんなことを考えていた24歳。セミが鳴き止んで、クリスマスマーケットでホットワインが並んでも「私を消す」に躍起になっていた。私を消しながら、本も無事に書き終えて、書店に並びました。友だちと「TSUTAYA 天神駅前福岡ビル店」に行って買った覚えがあります。

当時、一冊の本を自費出版しました。そのときにはじめて小説を出すわけです。それでペンネームを「住所」にしました。

こんな表紙だった

できるだけ「私」を排除したくて「住所」にしたんですよね。住所は常に氏名の下にある記号ですよ。だからあくまでなんの変哲もない記号として「住所」と名乗り始めたのがペンネームのきっかけでした。

どんな名前でも思想とか哲学が反映されちゃうものだと思うんです。派手なのでいくと綾小路翔とか。「ビジュアル系やりたいんだなこの人」みたいな。地味なのでも阿部寛とか。「この人寛大なのかなぁ」みたいな。で、こっちも想像しちゃう「この人、出席番号いつも最初なんだろうなぁ。当てられる回数多かったんかなぁ。本番に強そうやな〜」みたいな。そういうのを抜きにしたかったわけです。

「私をなくしたい」という「私」

何にも縛られていないコジコジ

と、まぁ名前をつけた瞬間にハッとしました。あ、これミスったな、と。これ考えすぎたな、と。

「私をなくしたい」が前面に出ちゃってんなと思ったわけですよ。これがおもしろいところですよね。「私を消したい」という「私」があるわけです。悟りたいって思ってるうちは悟れないわけです。コジコジになりたいやつがいちばんコジコジから遠ざかるわけですね。

ということで、それから7年。まだまだ悟りたいと思ってしまう未熟さを抱えながら、本日も原稿を書いておる次第です。今後ともどうかよろしくお願いします。

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