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何かに期待しないこと、という話

人に期待をしないことはすなわち、きちんとした優しさ。

前から歩いてくる人はきっと避けない。これから誰かにかける電話は出ない。あの店は空いていないし、2021年の夏は涼しくない。毛布は暖かくないし、チョコレートは甘くない。

何かにぶつからずに、無理なくするする〜っと生きるうえで人に期待しないことは重要なこと。誰かと時間をともにするなかで、相手に期待しないことは大切なこと。

期待をすることは何も言わずに相手の胸元に倒れ込むようなこと。それでいて受け止められなかったらすこし苦い顔をしてしまうような。お互いが悲しくなってしまうこと。

怒られた後に告げられる「期待されているということだよ」という言葉の、なんと自分勝手なことか。勝手に期待をして、勝手に失望をすることの、なんと不可思議なことか。

でもたまに、ほんの年に2回くらいは、期待をしてしまいたくなることがある。とても自分勝手だと知りながら、相手からも期待をされているのではないか、と疑ってしまう。すると相手の言葉はうまく入ってこないし、こちらもうまく喋れなくなる。何かぼんやりとした未来の人(あるいはレントゲンの写真や恐竜の骨格)と話しているような心地になって、あとには申し訳のない気持ちだけが残る。そんな一人芝居の間はとにかく気持ちが焦って悲しく、辛い時間とお金を使っていることが、やけに情けなくなって、別れた後には、もう生きた心地がせずに、とぼとぼと錘を背負って歩き、なんだか猛烈に泣けてきて、つい、ふと、叫び出したくなって「全部ゆめだったら良かったのに」などと、きっかけのないことを考えて、完全に陽が落ちて、真っ暗な道のなかでアスファルトをコツンと蹴ったりしながら「意味ないなぁ」と口に出して、それを言葉にすると猛烈な悲しみが襲ってきて、輪郭がぼやけてきて、すごく陰湿な気持ちになって、じめじめしているうちに、もうアスファルトを擦るような足取りにはならない。むしろ金魚のようなめでたい置物に巡り合っだ結果、かつての歓びとか西洋の人形とか、死んでゆくイッカクが悲しい気がしていてとてもルネサンスで、交わることはないと思いながら年貢を納め忘れていたことを思い出しているうちに完全にらっきょを漬け込みはじめ、掃除機を手繰り寄せて、実感がないなかの問答は銚子で酒を飲むような湯の花が爆発するような感覚で、妙にリアルだったり、号泣したり、1000年に1度のお祭りだったり、あれやこれやがすべからくサンダルに変身してゆくのである。

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