今日もどこかで遠吠えが聞こえる

今日もどこかで遠吠えが聞こえる

 僕は、犬の遠吠えを聞くたびに理科の先生を思い出す。

 犬が、喋った。
「やあ、おかえりなさい佐伯君。久しぶりだね」
 アパートのドアを開けて、中に入るなりそう言われた。僕は、意味が解らず、自分が疲れてるのだと思った。それとも、ここは自分の部屋じゃないのかと思って、一度ドアを閉めて、左右を見渡した。そこは確かに自分のアパートで、表札にも「佐伯」と、紛れもなく僕の苗字が書いてあった。僕は再び、おそるおそる自分の部屋のドアを開けてみた。
「人の顔を見るなり、いきなり閉めるなんて、なかなか失礼だね」
 また、犬が喋った。
 人の顔を見るなり、ってなんだよ。お前は犬じゃないか。って言うか、そういう事じゃなくて、なんで犬が喋っているんだ。なんだこれ、妖怪か何かか。
 僕は思った。そして、しばし呆然としていると、犬がさらに言う。
「早く閉めてくれないか。こんな所、あんまり人に見られたくない」
 玄関の上がり口に、両足を揃えて礼儀正しく座っている。だらしなく口を開けてベロを出し、ハア、ハア、言いながら、僕の方をじっと見ている。僕は、無言のまま、犬の言う通りにそっと、後ろ手にドアを閉め、鍵を掛けた。カチャリ、と言う音がやけに現実感がなく、なんだか虚無空間の中に吸い込まれていくようだ、と僕は思った。
 僕は、犬に促されるように六畳一間の狭いアパートを奥へと進み、寝室兼居間でもあるフローリングへと通された。なぜか、冷蔵庫が空いていて、牛乳がぶちまけられていた。だけど今はそれどころじゃない。犬の後を付いて部屋に入る時、そんな事があるはずないのに、この犬の喋り方、どこかで聞いた事ある気がするんだよなあ、と思った。そして、自分のアパートだと言うのに、犬に先導されて、すごすごと部屋に入った。

 僕と犬は、居間兼寝室の一人用のテーブルを挟んで座っていた。僕は、あまりにショッキングな出来事すぎて、驚くというリアクションすら出来ないままででいた。
 いや、もしかしたら、本当の本当の本当に驚いた時の人の反応なんて、こんなもんかも知れない。案外、キャーとかワーとか言う人って、あんまりいないのかもだなあ。
 僕は、この状況と、そこにおかれた自分の心境を、意外と冷静に分析していた。
「ふむ。あんまり驚かないようだね。佐伯君」
 犬があくまでマイペースに言った。そして、さらに続けて言う。
「どうやら私の事がわからないといった様子だね、佐伯君。まあ、こんな格好になっているのだからわからないのも当然か。私はね、何を隠そう桐谷先生その人なのだよ」
 犬は拍子抜けするくらい簡単に正体を明かした。
「桐谷、先生、ですか」
 僕は犬になった桐谷先生にではなく、これが現実なのかを確かめるように、ゆっくりと言葉を発した。声はかすれていたが、ちゃんと出た。そしてようやく、これは現実なんだと認識出来るようになってきた。犬は、臭いを嗅ぐそぶりをして、それから言った。
「そうそう、謝っておかなくてはいけない事がある。実に申し訳ない事をした。なにぶんこの体になって、まだ間もなくてね。君の事を、何か飲みながら待とうかと思って、冷蔵庫を開けたんだがね。こぼしてしまったんだよ。ほら、今の私の手ときたら、これだ」
 犬は、お手、をするようにテーブルに前足を載せて見せた。
「それから、鍵はちゃんと閉めておいたほうがいいぞ、佐伯君。この頃は空き巣やらも流行っているし、いつ、どんな奴が部屋に侵入するかわかったもんじゃない」
 だからって、喋る犬に侵入される僕って。
 僕は訊ねた。
「それで、桐谷先生、ですか。えっと、なんでそんな格好なんです」
「うん、それはだね」
 なんで犬が喋るのか。その犬がなぜ桐谷を名乗るのか。本当に桐谷が犬になったのか、それを信じろというのか。それは手じゃなくて前足と言うんだ。とか、様々な疑問が浮かんだが、それをいちいち問い正すのもなんだか、面倒くさくなってきていた。だけど、桐谷先生の独特の口調と雰囲気とを、犬はたしかに醸し出していた。
 桐谷先生、か。
 僕は忘れもしないあの事件を思い出した。
「実はあの後、私の研究がついに完成したんだ。長年苦労した甲斐があったよ。ハエみたいな小虫から初めて、モルモット、それから魚、亀やトカゲ、猫。本当にたくさんの失敗があったし、途中で何度も挫折しそうになったよ。私は独り身だったからよかったけど、もし妻なてどいたら、妻も実験材料にしていたかも知れなかったね、わっわわわん」
 桐谷は、名状しがたい実に奇妙な笑い声で愉快そうに笑った。
 僕が高校二年生の頃、理科の担当が桐谷だった。理科の授業の実験中、僕は桐谷の話など聞かずに友達とふざけあっていた。ガスバーナーを使用する実験だった。暗くぼそぼそ喋る桐谷の授業は生徒の間でも評判は悪かったから、真面目に授業を受けない生徒は僕だけじゃなかった。ふざけあってぶつかったせいか、僕のグループのバーナーはガスが漏れていたが、気付いていた者は誰ひとりとしていなかった。
「はじめは同じ虫同士で、それから次は別の種類のものと取り替えていったんだ。虫から魚類、魚類から両生類といった順番でね。哺乳類への実験に移行した時は、実に心が躍ったものだ。いや、あれは本当は緊張していたのかもしれない」
 結局、ふざけあっていた僕の近くでバーナーが火を噴いて踊り狂った。踊り狂うなんていうとおおげさかもしれないが、僕にはそう見えた。幸い、事故はたいした事も無く、僕らの机の端っこが、少し焦げた。僕は左手に少しだけやけどを負い、念のためにと理科室から保健室に、保健室から病院へと運ばれたが、やけどのあとは残らなかった。
「魚の脳を虫の頭へ、トカゲの脳を魚の頭へ、そうやって最期には犬の脳を猫に移植する事にも成功した。ちゃんと意識も性格も、それから記憶も保ったままだ。私は興奮したよ。すでに哺乳類での実験も成功し、後は人間の脳移植だけだったんだよ。とはいえ、こんな実験が成功しても学会には報告できない。まあ誰も信じてくれまいがね」
 もはや、僕に桐谷の声など届いていなかった。
 桐谷はあの事故のせいで教師をクビになった。桐谷ははっきりと言わなかったが、ふざけあって事故を起こし、さらにやけどをして事をおおげさにしたのは僕だ。それを桐谷が恨んでいないわけがなかった。桐谷の人生をめちゃくちゃにしたのは僕だ。
 桐谷の話はまだ続いていた。脳がどうとか、移植がどうとか、わけのわからない事を延々と喋っていた。僕は我に返って、白熱する犬の桐谷の眼を見た。
「いやあ、犬もなかなかいいものだよ、佐伯君。どこかに忍び込んでも犬のやる事だし、と多めに見てもらえるし。いざとなれば噛み付く事も出来る。人間にかかる病気だって犬にはかからない。人間よりも何倍もの速さで走れるし、疲れずにどこまでも行ける。牛乳を飲む時には、ちょっとばかり不便だけれどね、わっわわわん」
 僕は直感した。
 桐谷は僕に復讐に来たのだ。犬の体に自分の脳を移植して。
 僕のアパートに侵入しても、証拠は残らない。犬の証拠じゃ警察も事件にしない。そして、僕を噛む。桐谷は人間にかかって犬にかからない病気があると言った。よくわからないけど、狂犬病みたいな病気を桐谷が保有していて、それを僕に感染させる。そうして完全犯罪をして、犬の桐谷は、どこまでもどこまでも走り続け、逃げ続ける。

 僕は、大学のサークルを終えて、すっかり暗くなった道を歩いている。
 桐谷先生、まだ元気にしてるかな。
 桐谷先生は、本当に本当に本当に、犬の生活にあこがれていたのだそうだ。しかし、理科教師という仕事もあって、なかなか自分の実験に取り組む事も出来なかったようだ。そんな時、僕が事件を起こし、ようやく理科教師をやめる踏ん切りがついた。そして、心の底からなりたかった犬の体をついに手に入れたのだそうだ。人づきあいが苦手で、職員室でも異質な雰囲気を纏っていた先生。生徒からの人気も決して良くなく、ただ毎日を惰性のように過ごしてきた。だから先生は、僕の事件をきっかけにして、自由という名の禁断の扉を開いてしまった。人間の体を捨て、犬の姿になってまで。
「なんだか、先生らしいや」
 僕はアパートに向かいながら呟く。
 先生、今頃どこ走ってるんだろうなあ。
 身体を強張らせて覚悟を決め、震えていた僕に、先生は、わっわわわん、とあの奇妙な笑い声で満足げに笑った、そして、こぼしっぱなしになっていた牛乳を、ぴちゃぴちゃ飛ばしながら、しばらく舐めた。それからゆっくりと首をもたげると、満足そうに口の周りをベロベロ舐めるのを見てから、僕は先生の為にドアを開けてやった。
 最期に先生は振り返って、僕に言った。
 君には感謝しているんだよ。本当にありがとう。
 僕はあの時、ごめんなさい、の一言が言えなかった。
 先生は、どこまでも走っていくんだろう。自由に向かって。
 先生のこぼした牛乳は、早く拭かなかったせいで、数日臭いが漂っていた。

遠くでひとつ、犬の遠吠えが聞こえた、ような気がした。

おわり

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