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「ホワイト」は差別か〜差別についての論考(1)

花王石鹸が、人種差別を連想させる恐れがあるとして、『みんなで協力して楽しくおこなう家事を「ホワイト家事」と名づけ、同社が提案を試みたキャンペーン「Be WHITE」』を、一時休止とした件について。

僕の意見を結論から言うと、たしかに「Be White」という表現を、たとえばアメリカあるいは移民流入が著しいヨーロッパ一部諸国のような多人種混合社会で使うのは不適切と思う。
花王石鹸は国際的な企業なのだろうから、その点に配慮して、今回の一時休止をしたのは理解できる。

さて、以下は、むしろ本件に関しては余談になってしまうが、実のところ、日本社会ではこっちのほうが気になる。
すなわち、「ホワイト」という語に差別感があるとの思考は、いわゆる「言葉狩り」なのではないか、そのような思考こそが差別なのではないか、との指摘について。

つまり『現段階の日本社会』においては、いわゆる差別に関し、つぎのような一般概念があるのではないかと、僕は整理する。

①日本では、あからさまな迫害や生命に関わる人権蹂躙を伴うような激しい差別にさらされている当事者を、日常的に見る/知ることに乏しい。
②よって、いわゆる欧米的な経験則に基づく徹底した差別反対・禁止の思考をそのまま何の修正も無く日本社会に適用しても、虚しく空回りをするだけで、かえって違和感や拒否感(反発)を生じさせてしまう。
③そうした違和感や拒否感(反発)は、ともすれば乏しかった差別を新たに招来し、社会の分断をもたらし、真に解決されるべき社会問題要素や救済されるべき苦しんでいる/困っている人たちに向けての対処を、むしろ遠ざけてしまうことへと繋がる恐れがある。

日本社会と欧米社会の実状には一定の差異/距離があるので、今後、将来に亘る日本の特に『社会意識改革』の試みにおいては、『日本らしい特色のある』アプローチが必要になるだろう。

キーワードは『理解の増進』。

その具体的展望=Visionについては、僕自身、引きつづき学習し、思索してゆく。