心の緑黄色野菜

 この店よりも人との距離が近い飲食店を僕は他に知らない。

 日本でも指折りの歓楽街を少し離れ、大通りから続く路地の終着点にぽつんと浮かぶ赤い提灯。店内には釣り針のようなカウンターに沿って背もたれのない丸椅子が十席ほど置いてある。席と席の間隔が空いているところもあれば、ぴったりと寄り添っていたり、さっきまで座っていた人間模様がそのままに保存されているかのようだ。

 ここは兎に角、狭い。左右はもちろん、すぐ後ろに聳え立つ壁が僕たちをカウンターから離れることを許してはくれない。ちょっとでも混雑すると、身を寄せ合って肩を丸めながらお酒を飲むことになる。その時の僕たちの姿はさぞ滑稽なことだろう。

 釣り針の返しに当たる席には目の前に使い込まれたコンロがあって、絶え間なく食欲をそそる煙と音を漂わせていた。焼き場に立つご主人の後ろには、調味料がこれでもかと並んでいて、普通の店では眉をしかめそうなものだけれど、ここならそれもアリだと思ってしまう自分がいる。梁にはいつ撮られたのかも分からない写真が、日に焼けて炙りイカのように反り返っている。それでも色褪せた写真の中にいる人たちは、みんな一様に笑っていた。

 ここではトイレに行くために、他のお客さんに手助けしてもらわなければならない。椅子と壁の隙間は人ひとりがぎりぎり通れない絶妙な幅で、どうしても見知らぬ人の腹にカウンターのふちを食い込ませる必要があった。 やっとの思いでたどり着いたトイレには、聞いたこともない劇場の写真やプロレスの宣伝、往年のロックバンドのポスターが、キャンバスの空白を嫌う芸術家の作品みたいに壁一面に貼ってあって、用を足すだけなのに人の顔に囲まれて妙に落ち着かない。

 いろいろなお酒が置いてあるこの店の中で、特にパンチがあるものがホッピーだ。目を白黒させるようなホッピーが普通に味わえるのは、きっとここだけだと思う。特に、二杯目以降の焼酎の量は、もはやグラスにホッピーを入れる余裕がないほどに、なみなみと注がれている。二杯目を飲み干した頃には、おぼろげになった街の明かりの中を覚束ない足元で進まなければならなかった。

 そんなホッピーとお店の狭さのおかげで、人との距離は物理的にも心理的にもが近いものだから、隣の人が頼んだものが僕の肘の真横にあることもさほど気にならない。常連のオッチャンがいつも注文し、そのたびに肘の横にあったおつまみがある。一つ丸々焼き上げたピーマンにかつお節と醤油をかけたものだ。子供の頃からピーマンがそこまで苦手ではなかった僕は、当時は親や大人に褒められるためにピーマンを食べていた節がある。

「えらいね」とか「すごいね」と言われるたびに、好きでも嫌いでもないピーマンを口に運んでいた。だから、どれだけおすすめされても自分から進んで食べるほどの物ではないと思っていた。けれどついにオッチャンに根負けして、そのおつまみに手を出す日がやってきた。

 しっかりと中まで火の通ったピーマンは、柔らかく、醤油を良く吸ったかつお節と合わさって口の中を旨みで満たしていく。子供の頃の固くて苦味が強いという記憶は、跡形もなく僕の中から消え去ってしまった。僕の反応を見たオッチャンは、赤ら顔でうんうんと頷きながら満足そうにジョッキを空にした。

 今まで手を出してこなかった気恥ずかしさもあって、オッチャンの方を見れなかった僕は言い訳がましくご主人に話しかけることしかできなかった。

「ここのピーマンってどこか良いところのモノを使ってるんですか?」

「いや、その辺のスーパーで買って来たやつだよ」

 この会話がご主人の照れ隠しだったのか、ホッピーが脳内でスパークした際に生み出した僕の想像上の会話なのかは、いまいち定かではない。けれどここに来るたび僕がピーマンのおつまみを注文するようになったことだけは確かだ。

 人はピーマンを食べなくともお酒を飲まなくとも生きていける。それでも僕は、誰に言われるでもなく、この店でホッピーを飲み、そしてピーマンに齧り付く。

 あの日のピーマンが僕の人生に彩りを加えてくれたことは、きっと間違いないだろう。


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