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ぼくのなつ

ビールを片手に蝉の声を聴くと、夏が来たのだなと季節を噛み締める。そして僕はあの夏を思い出す。

大学生だった頃の話だ。

僕はとりわけ優秀でも落ちぶれてもいない、なんの才もないただの大学生だった。

大学に行った理由も、学びたいことがあるとかなりたい職業があるから、とかそんな大層なものでも無くてただ単に就職もしたく無くて親が行けというから行っただけだった。

本当は田舎の国立大学を受験してそこにいくつもりだったが、なんだかそこまで言いなりになるのが癪に感じて(通わせてもらってるだけありがたい話なのにね)試験を手抜いて半ば意図的に別の田舎から離れる私立大学に合格した。

まあそんなに嫌いな学問でもなかったし、実際自分のためになることもあったから、無駄ではなかったと思う。友人も1、2人くらいできて、学食で飯を食うくらいのいい距離感を保てていたと思う。

何がいけなかったのか、一人暮らしを始めて生活が不安定になったからか、度々起こる巻き込まれた恋愛沙汰のせいなのか、過酷なアルバイト状況のせいなのか、はっきりとした理由は定かではないが大学2年に上がる頃に軽い精神病に罹った。

友人といたり、趣味のことをしたり、バイトしたり、そういう時は気分が上がって笑ったり楽しんだりその場を円滑に過ごすことはできる。

ただ、そうじゃなくて自分1人の時間になると全く何もする気力もなく、好きだったものが一気に嫌いになったり、突然集めていたものをなんの感情もなく捨ててしまったりということがあった。自分でもなぜこんなに何もしたくないのか、惨めになるのかよくわからなかった。


その日も夜中の3時になっても眠ることができず、薬も効かず、お手上げの状態だった。

そこからどうしようもなくなって考えもせずパジャマで鍵もかけず家を飛び出した。

とにかく逃げ出したかったんだと思う。平凡でつまらない日常を送っている自分に嫌気もさしていたし、非日常を求めたんだろう。

裸足でアスファルトの上を歩いた。小学生の時以来、久しぶりに裸足で外を歩いた。汚いとか汚れるとかそういうことが何一つ気にならないくらい憔悴していたのだと思う。

夜の街が異様に優しかったのを覚えている。

そこまで田舎ではなかったけれど夜には人が居なくなって、街の明かりも消える。

世界に1人だけになった様な気になった。

錆びれつつある商店街の裏手をあてもなく彷徨って、結局疲れて、歩くのも嫌になって滑り台しかない公園の柵に腰かけた。

夏だった。

結構な距離歩いたから汗ばんでいたと思う。
結局まだまだこんなものしか歩けてないんだと思って悲しくなった。

星なんか見る気力もなくて、土と汚れた自分の足だけ見てぼんやりした。

蝉の死骸がいくつも転がっていて、無性に虚しくなった。自分の姿と蝉が重なった。

「家出か」

多分こんな様なことだったと思う。急に声をかけられて、半ば飛んでいた意識が一気に戻った。

少し離れた滑り台の下にいつのまにか人が居て、声かけてきた。

誰がどう見てもホームレスと呼んでいい様な、ぼろぼろの服とぼさぼさの髪と、伸び放題のヒゲしか覚えてない。顔がどんなのだったかとかはもう思い出せない。

そんなホームレスのおじさんだったけど、敵意があるわけじゃなさそうだった。

答える気にもなれなくて、下を向いてそのまま無視していると近づいてくる足音がした。

お金取られるかとか色々考えたけど僕はその時お金もなかったし、どうにでもなれくらいに思っていたと思う。でも、1人の時間を邪魔されたくはなかった。

「喧嘩したんか」

「違います」

1人にしてほしくて、近づいてこないでくれとどこか願いながら顔も見ずに答えた。

「俺はいやなことがあったよ」

「はあ」

1人にしてくれなんて言えなくて、地面に座ったおじさんが勝手に喋るのをなんとなく聞いた。

今日は自動販売機の小銭があんまりなかったとか、期限切れ弁当が少なかったとか、そんなことだったと思う。あんまり覚えてないけど、そういう彼らの日常のことだったはずだ。

「次、にいちゃんの番」

そうは言われても、別に僕が何か理由があって逃げているわけではないし、何を話したらいいか見当もつかないで黙りこくった。

「言いたくないか」

「…わからないんです」

この一言が僕には精一杯だった。なぜかわからないけどホームレスのおじさんは別に気にも留めないでそうか、と頷いただけだった。

それから僕らはなにかを話すわけでもなかった。

この時初めておじさんがビールを片手に持っていることに気づいた。酔っ払っているのかどうかはよくわからない。不思議と、どっかいけとかは思わなくなっていた。

僕は地面の土の粒を見てただ呆然と、得体の知れない焦燥感と不安をやり過ごし、おじさんはたぶん、星を見ていたと思う。

僕は柵の上に座って、おじさんは地面にあぐらかいて。

全く意味のわからない僕たちだった。

「お、日が昇るぞ」

おじさんの声でまた意識が戻った。我に帰ったというべきか。
どれくらい時間が過ぎたかも定かではないが、確実に空が白んでいた。
だんだんと明るくなっていく空をぼうっと見つめていると、おじさんが「こんなのも悪かねえな」と呟いた。

蝉の声がし始めた。

僕はそれに返す言葉をすぐさま見つけられるほど器用ではなくて、結局頷くだけになってしまった。

僕の中で何が変わったのかはわからない。でもただ、少しだけ気分が和らいだ。

鳥が鳴き始め、犬の散歩をしている人やスーツを着たサラリーマンが街を歩き始めた。

「じゃあ」

おじさんは人の目がいやなのか素っ気なくそう言ってさっさと公園から去っていった。

残された僕は、日の光を浴びるのがたまらなく嫌になって、そしてーーー


家の鍵を閉めていないことを思い出した。

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