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辞書の文字

机のPCの上に棚を作り、辞書類を置いてある。置いただけで、実際にはほとんど使っていない。

この他にもデジタル化した広辞苑や、電子辞書もある。それらの辞書類もほとんど使わなくなった。電子辞書は広辞苑を始め、200冊分以上の辞書事典が入ってるが、最初は面白半分で使ったが、紙の辞書に比べて目的の頁にたどり着くのが遅い。それ以上に納得感が得られない。

この2冊は文字は6ポイントと小さいが何故か読みやすい

国語辞典は3冊、漢和辞典が2冊あるが、辞書で遊ぶには何となく辛い。今回『広辞苑』を購入して読み始めたら、文字の大きさ以外に、何かの原因で辞書には読みやすさの違いがあるようだ。

『広辞苑』は読み物として面白かったという経験もあり、あまり苦痛も感じない。他の国語辞典と読み比べてみたら、最近の国語辞典の文字の大きさは7ポイントくらい、広辞苑よりも若干大きくなっているようだが、目が疲れる。

『ジーニアス英和辞典』第5版、これも広辞苑と同じくらいの6ポイントくらいの大きさで、文字が詰まっているような気もするが、他の英和辞典や和英辞典に比べ読みやすい。


辞書類と使う人間との相性もあるのだろうか。デジタル化された物よりも、紙の辞書の方が目的地に早く辿り着ける。同じ紙の辞書でも、読むのが辛くなるものと、何となく他にも目が行ってしまう、読みやすい辞書もある。人間の個体差による個性なのか、文字や行間の作り方による違いなのか、これは出版業界で研究や検討する必要があるのでは無いか。

昔の文庫本、岩波文庫などは今よりも文字が小さくて、しかも横にルビも振られていた。古書店で半世紀以上も昔の文庫本を見つけたとき、文字が小さいのに読みやすく感じて驚いた事があった。小学生の頃から岩波文庫を読んでいたのは、ルビと読みやすい何かがあったのだろう。

娘も孫娘も、親子で本をよく読んでいる。特に孫娘の読書量は、本代が家計に影響すると嘆くほど読むのが早い。そんな読書家の孫娘も、面白かった文庫本を渡しても途中で止めてしまうよう事もある。どうやら文庫本は遅くなり、新書版は普通に読めるようだ。何かが違うのだろう。

ただし、辞書に関しては孫娘は小4の時から電子辞書を使っている。電子辞書を使うようになり、調べるのが早くなり、小4から文章を書き始めた。ジイジが誕生日に買ってくれたので、漢字や単語の使用などを調べるようになり、書くようになったと言っていた。この点はアナログとデジタル、時代の違いなのだろうが。

読書離れというが、意外とこの問題は時代の違いというよりも、印刷の違いによるモノではないか、などと思い始めた。


余談になるが、印刷の他に読みにくさの原因は他にもある。翻訳されたものには、普通に読み進めるものもあり、読んでいて面倒になるものもある。この先生は真面目な方なのだろうな、などと思える訳し方もあるが、丁寧に分かりやすいのに読みにくく、疲れてしまう本もある。

古典などは特に違いが出て、読みにくさや文学性の違いを感じてしまう。自分の知識の無さが最大の原因なのだろうが。知識が無いから、自分流に読んで面白さを感じてしまう。

最近『紫式部日記』を図書館で開いて、和泉式部や清少納言に対する辛辣な批判の部分を読んで笑ってしまった。和泉式部を男好きとか清少納言を利口ぶってるとか、そう読むとこの日記は面白いが、著名な文学博士の現代語訳したものは面白味が無い。知識の違いの差だろうが、古典は面白半分で読むのも良いと思う。

何を選ぶのかは個人の自由だが、個人では文字の読みやすさがあるのかも解らない。また外国語や古典を現代語に訳したものが、年代の違いで読みやすさの感じ方に違いがでる事もあるだろうが、それら全てを出版業界にお任せではいけないのだろうか。


最後に、デジタル技術の進んだ現在、昔のようにルビを振ることは難しいのだろうか。植字での活版印刷であった昔でさえ、小さな文字でルビが振られていた。子供にとって、学校で漢字を習うよりも、ルビの振られた面白い本を読めば自然と憶えてしまうものなのだが。

左利きの矯正のために、祖父から3歳の頃から書道を習わされた。母と一緒にルビの振られた本や、新聞もルビがあり、一緒に読んでいた。そのお陰で小学生の頃から読書好きになれた。印刷法やルビは、子供の教育にも良いと思うのだが・・・。


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