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大酒飲みの・・・

寝不足が続き、ボーッと昼まで過ごした。録画しておいた「たそがれ優作」を見た。「第5話 雨上がりのビール」を見てて、懐かしい人のことを思い出した。


このTVドラマが好きなのは、高校の1年先輩だった人が、舞台女優を目指して東京に行ってしまった。その人が目指していたのは、こういうドラマ作りなのかなあ、などと思うからかな。

ある日とつぜん電話があって、高円寺の駅で待ち合わせをした。彼女の部屋で過ごしていた時に、女優を諦めて地元に帰ると言いだした。「帰ったら、付き合ってくれないか。」冗談のようにそんな事を言って笑ってた。

高校生の頃に比べ、化粧をするようになっていたのか、学校で評判の美人と言われていた時よりも、更に綺麗になっていた。余りにも綺麗なのに、それに比べ、雑踏とした如何にも下町の商店街の煩雑さと、その路地をくぐり抜けるようにして着いた汚いアパート。部屋も狭くて、布団を敷いたら何も置けなくなるようで、しかも窓の外に空も見えない。部屋も外も湿った憂鬱感があって、あれほど綺麗で清潔感のあったウナジや、着ていたTシャツにも湿気を感じた。弱々しくて、まるで生気の無い、萎れ掛かった白菜を抱いてるようだった。

まもなく彼女の訃報を聞かされた。好きだったのか、そうでも無かったのか。彼女の、帰ったら付き合っては、冗談のつもりだったのか。けっきょく、何のために東京まで呼ばれていったのか。何かを悩んでいたのか。いつまでも身体のどこかに、沈殿したオリのようなモノが残されたままになった。

こういう別れ方って、ずるいよ。恋人という関係でも無いし、付き合ってるという感覚も無かったし。ただの先輩と後輩の関係だけだったのに。こんな事は、50年も経てば思い出すことも出来ないくらい、何でも無かったことなのに。


その頃、遠縁の女性と結婚の話が出ていた。2歳年上で、両家共にそういう方向に動いていた。子供の頃から互いに知り合いで、何でも派手な具合で、言うことも行動も男勝りなところがあり、苦手な相手だった。病弱だった僕にとって、活発な彼女は姉のように感じていた。

唯一のどうしても好きに成れなかったところが、大酒飲みだったことだ。親戚の者はみな酒豪で、わずか数名が飲めなかった。その数名の中でも、もっとも弱かったものだから、いつも姉さんのおもり、僕だけ飲まずに専属運転手だった。冗談半分に抱きつかれた時の、酒臭い息はいつまで経っても慣れる事など出来そうになかった。

学生時代に、みんなと居酒屋に行くのが楽しみだったそうだ。男性も多いのに、最後はみな酔いつぶれて、自分一人がいつまでも酔わなかった。そんな事を自慢していたが、毎回酔って絡んでくるので、子供の頃の憧れたお姉さんとは違った、一種の恐怖心も湧いていた。


ドラマの中で、井伏鱒二の「サヨナラだけが人生だ」という、漢詩の話が出た。

別れゆく友人に酒を勧め、別離を嘆く漢詩の後半部だ。
花発(ひら)けば 風雨多し
人生 別離に足る
これを「花に嵐の例えあり、サヨナラだけが人生だ。」と訳したものだ。

この訳は嫌いだったが、何故か忘れることが出来なくなった。友人と酒を飲む時も、人との別れにも、仕事で大変な時期も「花に嵐の例えあり」が浮かぶ。

そして、一升瓶を前に並べ置き、今は亡き叔父達と茶碗酒を酌み交わしていたお姉ちゃんを思い出す。年齢と共に、茶人としての風格も感じられる様になったが、酔うと今はどうなるのかな、などと想像してしまう。

仮に夢が叶い、女優として有名になっても、それに意味があるのだろうか。お姉ちゃんもそれなりに事業で成功をしたが、だから何が良いと言えるのだろうか。

花に嵐の例えあり。風に吹かれ、意のままにならずに吹き曝されて苦しんだ時こそ、生きていた感触があった。老いての幸せは漫然と生き延びてる事ではないし、孫でもないし猫でもないし、旅でもない。もっとも苦しかった時代の、あの想い出なのかもしれない。

うしとみし世ぞ 今は恋しく
  ・・・なんて


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