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『伊豆の踊子』の「は」と「が」

英語は苦手で嫌なのだが、もっとも他の言語もまったくダメなのだが。それでも日本語は何気なく使っていて、唯一理解できる言語だと思っていた。ところが言語学や日本語学の、ほんの入り口にすぎないのだが、とてつもなく複雑なことが判ってきた。

日本語の主語の使い方や、「は」と「が」の掛かり方などおもしろいものがある。この掛かり方で有名な誤訳がある。

放送大学の放送授業で解りやすく説明されてた。「日本語リテラシー('21)」第7回日本語との付き合い方③で、「は」と「が」の使い方が、川端康成の『伊豆の踊子』を例に取り上げられてた。手元の文庫本もソニーのe-bookでも原作の通り。気になるので書店で見ても、川端康成全集を見ても、書き換えられてなかった。角川文庫のKindle版では、主語が踊子であると分かりやすくするために補われている。

「はしけはひどく揺れた。踊子はやはり唇をきっと閉じたまま一方を見つめていた。私が縄梯子につかまろうとして振り返った時、[踊子は]さようならを言おうとしたが、それもよして、もう一ぺんただうなずいて見せた。はしけが帰って行った。栄吉はさっき私がやったばかりの鳥打帽をしきりに振っていた。ずっと遠ざかってから踊子が白いものを振り始めた。」(角川文庫:Kindle版)

As I started up the rope ladder to the ship I looked back. I wanted to say good-by, but I only nodded again. ( Edward George Seidensticker訳)

訳では「私がさようならを言おうとした」となってる。「踊子はやはり唇を~うなずいて見せた。」と一連の踊子の動作を描いて、その中に踊子の心情を表現してる。作品全体の主語は、学生である「私」として書かれたものが、この部分だけ主語が踊子になってる。ここのところは微妙だが、だからこそ踊子の切なさが際立って感じられた。

なお、Seidensticker氏は川端康成の作品を翻訳し、世界の人に知らしめて、ノーベル文学賞受賞に貢献した人だ。氏ほどの川端文学を研究した人でさえ、「は」と「が」の掛かり方は難しいのだろう。

伊豆下田市ペリーロード

『伊豆の踊子』は小学生の頃、今の孫娘のように、喰うように本を読んでいたのを、この作品に出会ったことで、何を喰うのかを選ぶきっかけになった。書き換えなどしなくても、踊子のしぐさと心情が痛いほど感じられる。二人の旅での淡い想いが、この数行に踊子の強い想いの凝縮として現れ、後の学生の気持ちの変化、船の中での涙が引き立たされてる。

余談になるが、これを読んで涙が流れるほど感激して、原稿用紙を買ってきて『伊豆の踊子』と『千羽鶴』を書き写した。それを聞いた担任が見たいと言い、書いた原稿用紙を見せた。『千羽鶴』はどこが良かったかを聞かれたが、どう答えたか思い出せない。後に知ったのだが、文豪の書いた「エロ本」の中に、この『千羽鶴』が入っていて驚いた。『千羽鶴』と『雪国』が、Seidensticker氏の訳によりノーベル賞を受賞する作品だったのに。踊子との中伊豆の旅と共に、『千羽鶴』は鎌倉に憧れた素晴らしい作品だと思っていたのに。

ちなみに、ノーベル賞授賞式でのスピーチ原稿が『美しい日本の私―その序説』で、「美しい」は日本に掛かるのか、私に掛かるのか、などとどうでも良いような事を友人と語った思い出がある。これもSeidensticker氏が「Japan, the Beautiful, and Myself」と訳して出版されてる。

いつかは踊子と同じ道順で、伊豆旅行をしたいものだと思ってた。そんな願いを60年以上も懐きながら、ついぞその機会は訪れなかった。海沿いは何度も行ったのび、中伊豆だけは行かなかった。「いつかは」いつかは、という思いで頑張ってきた。自営では時間が有りそうで、自由にはならない。一人になり、自由になり、何でも出来そうで、その時には身体を壊し、行動力も失せてしまってる。「いつかは」は、いつまでもやって来ない、自分の行動でのみ出合えるものだと知った。

下田市ペリーロード

本当にやりたい事が有るなら、周りの気兼ねなどせず、思いのままに行動すべきだった。行きたいと思ったら、行けば良い。好きな人がいたなら、ハッキリと言葉で言えば良かった。何も出来なかったことを、この歳になって悔やむなら、行動して悔やむべきだった。周囲の目とか世間体とか、それは結局自分自身への言い訳であり、自分自身の弱さだけだ。

『伊豆の踊子』を読むと、どうも子供の頃からの夢や希望、などといったものを思い出してしまう。『伊豆の踊子』『千羽鶴・波千鳥』、もう久しく読み返していなかった。日本語の勉強と共に、あらためて美しい日本語の、川端文学を楽しみたい。

という、どうでも良いような雑文でした。中伊豆、歩きたい。

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