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アマテラス 岩戸籠りの意味 <後編>「詔(の)り直し」 ~ 古事記の暗号 4

アマテラスは、なぜ狼藉を働いたスサノヲを責めるのではなく、むしろ敬意を表し、自ら岩戸にさし籠り、徹底的に自己と向き合うに至ったのでしょうか?

この疑問を解くため、これまでの経緯をあらすじで振り返ってみましょう。


「・・・イザナギとイザナミはたくさんの神々を産みました。

しかし、最後に火の神カグツチを産んだ時、イザナミは大火傷を負い、その怪我が元で死にます。そして、黄泉の国へ行ってしまいます。

イザナギは嘆き悲しんで黄泉の国のイザナミを訪ねます。しかし、そこで恐ろしい姿に変わり果てたイザナミを見ることになります。驚いたイザナギは、命からがら黄泉の国から逃げ出します。

地上世界に戻ったイザナギは、死者の国の穢れを落とすため、禊を行い、体を洗い流します。するとそこからたくさんの神々が産まれました。最後にアマテラス、ツクヨミ、スサノヲの三貴神が産まれます。

イザナミは、アマテラスに高天原を、ツクヨミに夜の食国を、スサノヲに海原を治めるように命じます。

ところが、スサノヲはイザナギの命令に背き、海原を治めることをせずに「母に会いたい」と言って泣いてばかりいました。イザナギは怒ってスサノヲを追放します。

スサノヲは、母のいる根の国に行く前に、姉のアマテラスに挨拶をしていこう、と高天原を訪ねます。ところが、アマテラスはスサノヲが高天原を奪いに来たと思い、完全武装してスサノヲに対峙します。

スサノヲは、ただ挨拶に来ただけで邪心はないことを説明しますが、アマテラスは「では、邪心のないことをどうやって証明する?」とさらに詰問します。そこで、ウケイ(占いのようなこと)をしてスサノヲは身の潔白を証明します。

ウケイに勝ち、身の潔白が証明されたスサノヲは、勝ちに乗じて田の畔を壊し、溝を埋め、神殿でウンコするなどの悪行を働きます。

アマテラスはそれに対し、「田を広くしようとしてやったことでしょう」などと言い、咎めませんでした。

しかし、スサノヲの悪行は止まらず、今度は神聖な機織り小屋に皮を剥いだ馬を投げ込み、それが元で機織り娘が死んでしまいます。」


ここまでの経緯を、アマテラスは「見畏み」て、天の岩戸籠りに至るのです。


さて、アマテラスとスサノヲに共通するのは、「母を知らない子」である、という点です。

アマテラスは「イザナギ(父)の娘」として、イザナギ(父)の命令に従って生きています。

一方、スサノヲは「イザナミ(母)の息子」として生きています。母を慕って泣いてばかりいて、イザナギ(父)の命令に従いません。

そのためスサノヲはイザナギ(父)の怒りを買い、「つまらんやつだ!お前のようなやつは、ここから出ていけ!」と勘当のような目に遭います。

スサノヲはイザナミ(母)のいる根の国に行く前に、姉上に挨拶しに行こうと高天原を訪ねます。

そこでスサノヲを迎えたのは、武装したアマテラスでした。

挨拶しに来ただけの弟を、武装して迎えるって、尋常ではありません。

現代で言うなら、こんな感じですよ。↓

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ひどくない?


挨拶しに来ただけなのに・・・。

殺る気マンマンじゃないですか!

いや、狼藉を働いた後のスサノヲに対する態度だったら、分からなくはないですよ。

でも、この時点では、スサノヲは母を慕って、ただ泣いていただけじゃないですか。

確かにスサノヲはイザナギ(父)の命令に背いて、職務放棄し、泣いてばかりいました。

その結果、緑の山々は枯れ、河や海は干上がってしまい、地上は荒れたかもしれません。

でも、武装して迎えなきゃいけないほど、危険な弟でしょうか?


心理学にラベリング理論というものがあります。

ラベリングとは、レッテル貼りのことです。

アメリカの社会学者ハワード・ベッカーは「アウトサイダーズ」という著書の中で、「逸脱というのは、行為者の内的な属性ではなく、周囲からのラベリング(レッテル貼り)によって生み出されるものだ」と唱えました。

簡単に言うと、人は貼られたレッテルの通りに行動するようになるという理論です。


イザナギは、自分の命令に従わないスサノヲに「つまらんやつだ」というレッテルを貼りました。

アマテラスは、「イザナギ(父)の娘」ですから、イザナギ(父)と同じ価値観で生きています。

ですから、スサノヲに対して、イザナギ(父)と同じように、「つまらんやつだ」というレッテルを貼りました。

スサノヲは、イザナギ(父)からも、アマテラスからも「つまらんやつだ」というレッテルを貼られました。

逸脱は、ここから生まれたのではないでしょうか?


私は思うのです。

アマテラスも本当は、イザナミ(母)に会いに行きたかったのではないでしょうか?

しかし、高天原を統治する者として、まさか黄泉の国に下ることはできません。

そんなことをしたら、イザナギ(父)がどんなに激怒するか・・・。

アマテラスにとっては、恐らくイザナミ(母)の名を口にすることさえ禁忌(タブー)なのです。

自分にとって、絶対してはいけないこと、その禁忌(タブー)を平気で犯すスサノヲに、ものすごく腹が立ったのではないでしょうか?

怒りの根底には「悲しみ」があります。

子供の頃、母に十分甘えることができなかった「悲しみ」。

あなたに、弟や妹がいるのであれば、その気持ちが分かるのではないですか?

「お兄ちゃんなのだから、お姉ちゃんなのだから、しっかりしなさい」

まだ自分だって幼い子供なのに、まだまだ甘えたいのに、そう言われてきたのではないですか?

本当は、もっと甘えたかった。母の愛に包まれていたかった。

けれども、そんな感情を押し殺し、じっと我慢して、まだ子供なのに「大人しく」振舞ってきたのではないですか?

そして、自分が必死で我慢していることを、弟や妹が平気でやっているのを見て、無性に腹が立ったことはないですか?

アマテラスの「母を知らない悲しみ」は、スサノヲに対する「怒り」に変換されたのです。

また、アマテラスは「禁忌を犯してはならない。禁忌を犯すと大変なことになる」という恐れを持っていました。

高天原を治める者として、「常にちゃんとしていなければならない」

太陽の巫女として、「いつもキラキラ輝く存在でいなければならない」

偉大なる父・イザナギの娘として、父の名を汚す行いがあってはならない。

黄泉の国のことなど、考えてはいけない。勿論、口にしてはいけない。

・・・母のことなど、考えてはいけない。勿論、口にしてはいけない。

これらは、アマテラスにとって絶対的なルールであり、ルールを破ることは「禁忌」でした。

ところが、スサノヲは父・イザナギの命令に背いただけではなく、「母に会いに行く」などと平気で言うではありませんか。

この時、アマテラスは、スサノヲに「禁忌を犯す者」というレッテルを貼ったのではないでしょうか。

「禁忌を犯してはならない。禁忌を犯すと大変なことになる」

アマテラスは禁忌を犯すとトンデモナイことになる、という恐れを抱いています。

トンデモナイ事態とは、あんなことや、こんなことや、いや、本当に考えただけでも恐ろしい大変な事態です。

恐怖は、一度心に芽生えると、勝手に増大していく性質があります。

あんなことや、こんなことや、と想像が膨らみ、どんどん大きくなっていくのです。

かくして、アマテラスの中でスサノヲは、大地を揺るがし、破壊の限りを尽くすゴジラのような巨大モンスターと化したのです。

アマテラスが心に秘めた「怒り」と「恐怖」は、彼女に武装させましたが、これは心の武装でもあるのです。誰にも知られてはいけない「母への思い」を武装して守っているのです。

しかし、アマテラスはその後、ウケイの結果を見て気付きます。

スサノヲというモンスターを創り出したのは、自分自身の心だったということを。

「わたし」がそのような目で見たから、その通りのスサノヲが現れたのだ、ということを。

「わたし」が、スサノヲを「禁忌を犯す者」にしたのだと。

さもありなん。邪心がなかったはずのスサノヲが、ウケイにより身の潔白が証明されたばかりだというのに、一転して「禁忌を犯す者」として振舞い始めるのです。

実際、このときスサノヲが犯した罪は、全て神聖な場所を穢す「禁忌」なのです。

アマテラスの潜在的恐怖が投影され、「禁忌を犯す者」としてのスサノヲが現出したのです。

「わたし」の心の深層にあるものが、目の前の現実を生み出している。

そう気付いたアマテラスは、ここに至り「詔(の)り直し」を行います。

「詔(の)り直し」は、世界を変える秘儀です。

いま流行りの「引き寄せの法則」の元型です。

「詔(の)り直し」とは、私が勝手に名付けたのではなく、ちゃんと原文にも「詔り直したまへども」とあるのです。

「わたし」こそが、目の前の現実を創っている創造主であり、全ての責任は「わたし」にある。その「わたし」が命ずる「かくあれ!」と。

※ここで重要な補足をします。責任とは、自分でコントロールできることに生じるのであって、コントロールできないことに責任は生じません。全ての責任は「わたし」にある、という宣言は、コントロールできるという前提に立っているのです。これこそが「詔り直し」の最大のポイントです。

アマテラスは、スサノヲが犯した禁忌を咎めるのではなく、「田を壊したのではなく、広くしようとしたのですよ」と、詔り直します。

これは、単なるポジティブ・シンキングとは違います。また、ただ言い方を変えているだけでもありません。

スサノヲの前提を変えているのです。これまでと真逆のレベルで。

もっと言えば、スサノヲを丸ごと受け入れているのです。すべてを許しているのです。

「スサノヲは素晴らしい神なのだから、宮殿にウンコするわけないでしょ。ウンコに見えるだけで、なんか違うものじゃない?田を荒らしたりするなんてありえないから、きっと広くしてくれようとしたのね」

ということを、本気で言っているのです。やせ我慢して、顔をひきつらせながら言ってるのではなく、100%本気なのです。

スサノヲを見る「目」を改めたのです。つまりスサノヲに敬意を持って「見畏み」たのです。

さらに、一切を見る「目」を改めるために、あえて視覚的情報が失われる「天の岩戸」に籠り、内なる「目」を開くのです。

これにより、その後のスサノヲがどうなったかというと、

「高天原の禁忌を犯す者」から一転して、出雲の英雄になるのです。


そしてその出雲でスサノヲは、クシナダヒメの父であるアシナヅチに、「アマテラスの弟である」と名乗っています。

あれだけ「イザナミの息子」であったスサノヲが、「アマテラスの弟である」と名乗っているのです。

さらに、ヤマタノオロチの尾から得た剣を、スサノヲはアマテラスに献上します。

アマテラスが恐れていたモンスターは、「詔(の)り直し」の後、自分を慕い守ってくれる「守護者」へと変貌したのです。


さて、あなたにも心の奥底に閉じ込めている「モンスター」がいるでしょうか?

「モンスターを解き放ったら大変なことになる」と恐れて、絶対に蓋を開けないようにしている「禁忌」があるでしょうか?

その「禁忌」はあなただけのもので、他人にとっては別に「禁忌」ではないかもしれませんよ。

蓋を開け、解き放っても、何の問題もないかもしれませんよ。

モンスターだと思って閉じ込めていたけど、解放してみたら、それがあなたの「守護者」になるかもしれませんよ。

天命とか才能って、意外と「禁忌」の中に隠れていたりするかもしれません。

新年を迎えるにあたって、あなたも「詔り直し」をしてみませんか?



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